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     尖 閣 諸 島 盛 衰 記

    - なぜ突如、古賀村は消え失せた? -

目次
     1、魚釣島・南小島篇 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
      鳥毛から 節製造へ “帝国産業界ニ貢献 頗ル大ナリ”
        - 古賀の見果てぬ 和平山の夢 何だった? ―
                       尖閣諸島文献資料編纂会 編集部
はじめに
                           1、「嗚呼 これ 古賀の王国にあらずや」
2、アホウドリ鳥毛採取から、剥製・カツオ節製造へ
3、開拓経営の基礎固まった、目指すはカツオ王国
4、古賀村に異変?
5、魚釣島古賀村(跡)のその後の歩み 
6、ヤギ食害で 変貌する魚釣島 
7、急ぐべし 尖閣諸島・古賀村跡の遺跡調査
8、南小島古賀村 海鳥事業の本拠地
9、南小島古賀村跡 規模・形状 魚釣島上回る?
10、急ぐべし、南小島古賀村跡 遺跡調査も
11、終章― もしも、古賀が命長らえていたならば?

   2、久場島篇 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 143
     高波にさらわれず 今なお木々の茂みに眠る
      - 久場島・古賀村の遺構、遺物(生活跡)調査を ―
                     尖閣諸島文献資料編纂会 会長 新納義馬

      あとがき


      尖 閣 諸 島 盛 衰 記

     - なぜ突如、古賀村は消え失せた? - 

  

      1、魚釣島・南小島篇
        鳥毛から 節製造へ “帝国産業界ニ貢献 頗ル大ナリ”
         - 古賀の見果てぬ 和平山の夢 何だった? -

 はじめに
 資源枯渇説に疑問 台風被災による撤退では?

 古賀辰四郎の尖閣諸島の開拓事業は、明治40年代には大きな発展をみていたが、なぜか大正期に入ると突然撤退している。 これは大きな謎とされてきた。
 これまでアホウドリなど海鳥を乱獲するなどして資源が枯渇したから衰微した。
 利益に見合わなかったから撤退したのではと、種々の憶測がなされてきた。
 筆者らは、この撤退説に疑問を持ち、当時の資料に当ってみた。

 大きな台風が尖閣諸島を襲って、古賀村は壊滅してしまい、古賀は列島経営から手を引かざるを得なくなったのではという 結論に至った。台風被災による撤退説である。
 勿論、これについて検証可能な資料が充分あるわけではなく、単なる推測でしかない。
 それが事実に近いならば、尖閣諸島開拓者古賀辰四郎の人物像、アホウドリの乱獲に見られる資源の略奪者というこれまで のイメージを変える必要があろう。

 とり急ぐべし 古賀村跡の遺跡調査を
 本書では、「尖閣諸島盛衰記」と題して、できるだけ写真資料を多く混じえて、古賀辰四郎 の尖閣諸島開拓経営の盛衰を簡単に取りまとめて見た。その中で台風被災による撤退説を紹介し、古賀村の遺跡(遺構と遺物) 調査について提言した。
 本稿は、本編纂会・新納義馬会長の「高波にさらわれず 今なお木々の茂みに眠る、遺跡調査の勧め」(後出)に触発された ものである。会長が久場島の古賀村跡の遺跡調査に熱意を示された。 会長をや、況んや我々編集部たるも、魚釣島と南小島に ついて調べねばと、急ぎ筆を執った次第であるが、性急のあまり稚稚な内容になったのは免れ得ない。
 読者諸賢の批判を乞う。
 本書の目的の1つは、遺跡調査の提言にある。関係諸機関が、遺跡調査の重要性を認識し、この実現に向けて、第一歩を踏み出 してくれることを願う次第である。
 なお、本稿では、新納会長が久場島の古賀村跡については言及しているので、魚釣島と南小島にとどめた。
  

石垣市
古賀商店八重山支店 跡近くに建つ「古賀辰 四郎尖閣列島開拓記念碑」 魚釣島を頭部に形どり、 開拓の偉業を顕彰している。


 尖閣諸島 飢餓の島  餓死の島也 
 尖閣諸島は、一言でいうと飢餓の島である。餓死の島也、と評しても過言でない。
 同島を調査した調査団は。「島に3日いたが、ずーとヤーサ(飢餓)した。食べる物が何もない。食べられる物と言えばせ いぜいクバの木の芯とシュウダ(臭蛇)だけだ。用船した船員たちからコメを分けてもらったから助かった」。(上運天賢 盛談)。外部から補給がなければ餓死の島である。
 これを実証したのが戦時中、米機の銃撃に遭い、魚釣島に漂着した疎開民である。持参した食料が食べ尽した後、悲劇は 起こった。食べられる野草は僅かしかなく飢餓、栄養失調に陥った。
 体力のない子供、年寄りから次々亡くなっていった。決死隊が丸2日間かけて舟を漕ぎ八重山に連絡にし、救援船が迎え に来、110名余の命が助かった。さもなければ餓死の島は、全員を死に追い込んでいた。往昔はアホウドリが棲んでいた。 だが、それだけ食べては生きられない。
 尖閣諸島は、古来より餓死の島、人の住めない無人の島だった。考古学調査した多和田真淳は、「人間が住んでいたと いう痕跡はない、あるのは古賀時代の遺跡だけだ」と記している。

 領土編入以前 海鳥・海産物求め 漁民・冒険家 渡島
 首里王府時代は、進貢船航路の標識島ともなり、沖縄では、ユクンクバシマと呼ばれ、その存在は知られていた。 明治18年明治政府は出雲丸が調査実施したが、その前後において、海鳥や海産物を求めて漁民や冒険家たちが渡島を 試みていたとも推測される。明治8年政府から琉球藩へ汽船大有丸が下賜された。同15年には沖縄開運会社が発足、県より 大有丸を借り受け、宮古八重山航路が開かれている。古賀は「明治17年尖閣列島に人を派遣し同島の実況を探検せしめ云々 とある。「褒章資料」(後出)、これが事実であれば、大有丸を用船して探検せしめたのだろうか。
 明治23年県属塙忠雄の久場島並に魚釣島の聞取調査報告には、「久場島・魚釣島に渡航したる糸満人は総計78名〔大有丸32名、 鰹船26名、与那国20名〕、最近では現地に小屋掛けを為し移住する計画と認め候。食糧運搬の為(石垣島に)帰航した糸 満人某より該島の概況及び物品(夜光貝殻1個〔漁獲物〕・寛永銭4枚〔漂着物〕)を添えて上申候」とある。
糸満人が尖閣諸島に集団で、「夜光貝、鱶、鰹、シビ、アホウドリ」等を求めて渡島、小屋掛けを為し、漁業に従事していた。 同23年には共同水産会社の松村仁之助の率いる漁夫による操業、翌24年~26年伊澤弥喜太率いる漁夫の操業、等々が報告 されている。

   古賀辰四郎 開拓事業に着手  飢餓の島から 豊穣の島へ
 沖縄県丸岡知事は、水産物取り締まりの上から困惑し、明治23年1月には、明治政府に対し所轄決定に関する伺いを上申した
国外問題で多難な折り、政府は慎重にならざるを得なかった。明治26年11月、奈良原県知事は「久場島、魚釣島へ本県所轄 標杭建設」旨を上申した。
 明治28年1月14日、政府は、日清戦争も終局を迎え、ようやく内治に目を転じると、件の尖閣諸島は、飢餓の島、餓死の島で、 古来より無人無主の島であることが分かり、日本領有を宣言した。
明治29年9月古賀辰四郎が魚釣島他3島を借り受け、開拓事業に着手した。
 古賀は、魚釣島に開拓本拠地古賀村を建て、海鳥事業、カツオ節製造、農林畜産の開拓事業に精励した。かくして飢餓の 島尖閣諸島は、実りある豊穣の島へ成り変わっていた。