ホーム 活動記録 調査成果物 文献書庫 ご協力願い ご連絡・問合わせ リンク

戻る

尖閣研究 尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告

  - 沖縄県の漁業関係者に対する聞き取り調査 2017年 -

  書 評 1   

日本政策研究センター 「明日への選択」 平成31年4月号




  書 評 2
平成31年(2019年) 4月6日更新

尖閣開拓「古賀村」のナゾを解く新資料発見

      明治41年に撮影された魚釣島古賀村の全景。中央には日の丸が掲げられている=「尖閣研究」
      尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告 -沖縄県の漁業関係者に対する聞き取り調査-から


 沖縄・尖閣諸島の地元漁業者の聞き取り調査で歴史資料の拡充を行ってきた「尖閣諸島文献資料編纂会」 (新納義馬会長)がこの10年間で4冊目となる調査報告書「尖閣研究」を発刊した。
 編纂会は尖閣開拓史に光を当て、明治中期からの魚釣島の定住開拓がわずか約15年で頓挫した経緯を再検証 新資料を発掘した。尖閣諸島の学術調査は24年前を最後に中断しており、島の生活跡や遺構は崩壊・消失 の危機にある。編纂会は国による調査の再開や現地の遺構保全を改めて訴えている。(編集委員 久保田るり子)


 消えた魚釣島「古賀村」のナゾ
 絶海の孤島、尖閣諸島は古来、琉球航路の標識島だった。近代に入っても島は無人で無主だったが、地元漁師 らが海鳥や海産物を求めて渡島し、明治8年ごろから日本政府が初期調査を始めている。
 その後、日清戦争終盤の1895(明治28)年に日本が正式に領土編入した。本格的な開拓は明治29年、石垣の商 人、古賀辰四郎が明治政府に「官有地拝借御願」を出し、開拓の許可を受けたことに始まる。古賀による尖閣開拓 は、島に移住民を募って農地を開拓したほか、工場を建てたり、アホウドリの羽毛採取やカツオ節製造を行なった りして活況を呈した。
 ところが、明治44年を最後に住民は激減し移住者も撤収していく。「古賀村と呼ばれた集落はその後数年で荒廃 し、古賀辰四郎自身も撤退した。だが、実はその理由について、これまでしっかりとした検証が行われてこなかっ たのだ。
 沖縄の郷土史家らで構成する編纂会によると、「古賀さんについては地元では『あの人はアホウドリを乱獲して 羽毛採取でもうけたが、結局は乱獲して採算が取れなくなったから撤退した』などと言われ、風聞が通説になっ てきた。だが、古賀村のあった魚釣島、久場島、南小島で本当は何があったのか、調べた人はいなかった」 という。

 戦後の米占領下で調査が行われなかったほか、本土復帰後も研究者による尖閣開拓史の研究は行われてこなかった。 その理由は(1)開拓史への無関心 (2)中国への配慮 (3)尖閣へのタブー視―などからだ。

 約10年にわたり漁民の聞き取り調査を行ってきた編纂会は開拓史の重要性に着目、古賀村の盛衰史も調査に 加えた。人災なのか、天災なのか、気象資料などを当たった結果、実は開拓が頓挫した明治44年から翌 年(大正元年)にかけて3つの大型台風が尖閣諸島を襲っていたーとする昭和23年の気象資料が見つかった。
 現在のような気象レーダーのない明治末期の台風進路は、通常の場合、記録が残っていない。ところが、 沖縄県立図書館に石垣島測候所の「気象調査報告」(昭和23年3月)に、明治34年から昭和8年までに発生した 台風31個の詳細な進路調査があったのだ。

 これは当時の石垣島測候所職員の瀬名波長宣氏が独自に作成したものだった。明治末期の台風進路を瀬名波氏 がどんな方法で調べ上げたのかは明記されていないため不明だ。明治末期、当時は日本統治下だった台湾には 台北、台南、恒春、膨湖島などに測候所があり、東シナ海や台湾海峡の気象観測をしていた。このため 「戦後、当時の台湾の資料を入手した可能性が高い」(編纂会)とみられるという。編纂会では専門家による 本格調査の必要性を指摘しつつ、今回の調査の経緯について、報告書の最終章に「魚釣島・南小島古賀村盛衰考」 としてまとめた。

 野性化猫がアホウドリ駆逐
 古賀村で明治30年から始まった開拓での主要産業は、初期はアホウドリの羽毛採取、その後は黒潮の影響 で好漁場だったカツオ漁やカツオ節製造だったという。また、島はサンゴ礁を爆破して船着き場を建設、 漁船も次々と新造するなどの設備を充実させた。カツオ節職人も各地から集めた結果、明治42年には本土 のカツオ節品評会で「尖閣カツオ節」が2等銀賞を受賞するまでになった。
 記録によれば、明治30年代後半からの最盛期、職人は横浜や高知からも入村した。古賀辰四郎は「永住」 を方針とし、東北地方から10歳そこそこの子供たちも契約して入村させ、師範学校卒業生による教育も 施した。
 労働者は新聞広告で各地から集まり、最盛期の住民は約240人、戸数は99軒にのぼった。古賀村は60.ヘクタール の田畑を開墾。岩礁を砕いて1万平方メートルの平地を造成し工場や作業所、倉庫、家屋など数十軒を建て、堅 固な石垣をめぐらせた。本拠地の魚釣島事務所に日の丸を高く掲げた写真が残っている。

 しかし、明治末期の古賀村撤退後、尖閣諸島は荒れ放題となった。古賀村時代はアホウドリの捕獲制限が あったが、撤退後は漁師らが乱獲。さらに、入村者らが飼っていた猫が野性化して繁殖し、アホウドリを 駆逐してしまった。
 昭和に入って荒廃はさらに進んだ。1950年代から琉球大学などの学術調査が行われたが、70年代の魚釣島 灯台の建設時に非常食用に持ち込んだヤギが無人の島で繁殖し、あらゆる草地を食べ荒らす食害によって 島の植生が破壊されてしまった。この影響で地盤が緩み、石垣は崩れている。古賀村跡も高波を防いで いた防波堤や盛り土は流されてしまった。

 「尖閣諸島の拠点となった魚釣島、南小島、久場島の古賀村跡は、このままでは消失してしまう。これ ら(開拓事業)は先人の偉業であり、国や県がしつかり調査し保全し、日本近代産業遺跡群に認定して 後世に伝えるべきだ。古賀村の撤退理由についても学術調査が欠かせない。すべての上陸を禁止し、尖 閣諸島の学術調査まで放棄している現状は再検討すべきだ」と編纂会は訴えている。


 「尖閣研究」は日本財団の研究助成(尖閣諸島海域の漁業調査 2009年度~2017年度)で行われた調査 に基づく報告書(全4冊)で、今回が最終回となる。
報告書は「日本財団図書館」(ウエブ版)で閲覧できるほか、 尖閣諸島文献資料編纂会(沖縄県那覇市大道40番地 TEL・FAX098-884-1958)でも入手が可能。