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尖閣研究 尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告

― 沖縄県の漁業関係者に対する聞き取り調査 2012年 -

 書  評 1
平成26年(2014年)  2月11日更新

尖閣漁労の歴史、初編さん 荒波に向かい続けた
          日本の足跡まとめる 地元グループ

 尖閣諸島(沖縄県石垣市)海域の漁業に関する調査「尖閣研究」がまとまった。地元沖縄の民間研究者のグループ 「尖閣諸島文献資料編纂会」が約1年2カ月かけて沖縄全域の漁民、約70人から聴取した。戦前の尖閣の漁労に ついては初めて語られる事実が多い。民俗学的にも面白い戦前の伝統漁法を紹介されている。訥々と語る地元漁民 の口調に加えず収録したことで、荒波に立つ尖閣の息吹が伝わってくる貴重な資料集になった。(久保田るり子)

 ■カツオの一本釣りで大漁だった戦前の尖閣近海

 尖閣近海は大陸沿岸流と黒潮の混合で潮目ができるため、多くの魚類が回遊する好漁場だ。今回の聞き取り調査 では、漁で栄えた戦前を知る元漁師たちがカツオ船やカジキ、マグロなどの一本釣りの様子を語った。戦前、那覇 市垣花は尖閣出漁の深海一本釣りで知られ、40隻もの船があった。カツオは特に高く売れ、魚も豊富だったため 大漁時には10日余りで3トンの水揚げも珍しくなかったという。

 13歳から飯炊きで尖閣へ行っていた安仁屋宗栄さん(89)は一本釣りの前に行われていた伝統漁法のイシマ チャー(石の重りに餌を巻いて沈めて釣る漁)などを生き生きと語っている。尖閣周辺の漁法の変遷や戦中戦後の 漁労のについて証言で確認されたのは初めてだ。

 尖閣周辺では戦前、戦後ともに沖縄各地や県外船だけでなく不法操業の台湾船が操業してきた歴史がある。だが 特に日中間で政治化して以降、漁労調査はもとよりさまざまな日本側の調査が滞ってしまった。

 ■魚釣島・南小島に上陸しカツオ節を製造

 昭和25年ごろは伊良部町から出たカツオ漁の漁民たちが魚釣島に上陸して簡易工場を作り、かつお節を製造 していた。当時を知る宮古島の元漁師の与那嶺正雄さん(79)が魚釣島の工場の様子を話している。山から木 を切り出し、柱を組んで米軍野戦用の天幕シートで屋根を代用。漁民らは船に寝泊まりした。魚釣島は水が出る が、南小島は水がないため海水で炊いた。

南小島に3カ月ほど滞在してカツオ漁をした元漁師の仲地行雄さん(84)によると、海岸から100メートル のところで釣れるほどカツオは豊漁。カツオは足が速いので島でカツオ節にしようということで上陸。さおで釣 り、釜で炊いて骨を抜き乾燥させてなまり節にする様子を詳述した。他にもカツオ節製造にかかわった元漁師ら が証言、改めて当時の尖閣の様子が浮き彫りになった。

 ■尖閣諸島の漁業に関する資料は希少

 尖閣諸島海域での漁業に関する資料は少なく、その実態や歴史などが体系的に調査された文献がない。戦前に 関しては体験した漁師らが高齢化している。このままでは当時を知る証言が消えてしまうとの危機感から、地元 の研究者が始めたのが「尖閣研究」である。

 この調査は日本財団の助成を受け、2009年度に「尖閣研究」として第1弾を出した。本書は「聞き取り編」 と題した第2弾だ。

 本書では戦前のカツオ漁のほか、1953年の李承晩ライン設定後、本土の船が南下して尖閣諸島水域のサバ 漁場で本格操業した事情や、1960年代後半に台湾漁民が不法操業し琉球警察が取り締まった経緯など、この 海域を知るうえで欠かせない調査が行われている。

 戦前戦後、尖閣の海に中国の影はない。そこで奮闘し魚を追うのは沖縄の男たちだ。水や天候に苦労しながら カツオやカジキを釣り上げる漁師らの写真に、日本固有の領土、尖閣問題の原点を改めてみる機会にもなる。

 「尖閣研究」尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告の問い合わせは尖閣諸島文献資料編纂会
           (電)098-884-1958(FAXも)


書  評 2  

日本政策研究センター 「明日への選択」 平成25年12月号