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尖閣研究 尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告

― 沖縄県における戦前~日本復帰(1972年)の動き 2009年 - 

書 評
正 論 平成22年(2010年)10月13日

資料が語る「尖閣は固有の領土」 中国軍事専門家 平松茂雄

 尖閣諸島が紛れもなく日本領土であることを実証する資料集が2冊、この数年間で沖縄で出版されている。 那覇の尖閣諸島文献資料編纂会による『尖閣研究―高良学術調査団資料集」(上下巻、平成20年)と、 『尖閣研究―尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告』で前著は700㌻、後著は300㌻を超す大部である。
 前著は、筆者が平成20年3月3日付本紙読書欄で紹介した。戦後5回、多方面にわたり行われた高良学術調査団 の調査を通し島の実態が克明に記述されていて興味が尽きない。この種の調査が戦後5回も実施されたことが、 取りも直さず尖閣諸島に対するわが国の実効支配を裏付けているという意味でも貴重な文献である。
 今度出た資料集は、官報、公文書、各種新聞記事、漁業・水産関係資料などを基に編纂され、この8月に刊行 されたばかりなので、本欄を借りて紹介する。

 領有宣言前からの日本漁場

 尖閣諸島が日本領土となったのは、明治28年(1895年)である。だが、それ以前の明治
初年から先島諸島次いで沖縄の漁民たちが、小さな刳り府ね天馬船で東シナ海の洋上遥か彼方の小島を目指し て出漁していた。
 尖閣諸島海域は豊かな漁場である。直近の海域でカジキ、カツオ、イルカ、フカなどが簡単に獲れた。波の高 い時には海水とともに魚が甲板に飛び込んできた。魚釣島の海岸にはいくつもの自然にできた掘割があり、 満潮になると入ってくる魚を棒で追い出して獲った、と高良調査団員は回想している。島はアホウドリその他 の野鳥の楽園でもあった。同報告書によれば、推定1000万羽の海鳥が群れをなしていた。
 尖閣諸島は、明治17年から石垣島の古賀辰四郎氏が、1島を除く4島を日本政府から借り上げ、主島の魚釣島と 南小島で鰹節工場やアホウドリの羽毛の採取を生業としていた。昭和7年に払い下げを受けて古賀氏の私有地と なった。昭和15年、戦争が近づいてきたため古賀氏が引き揚げて以来、無人の島となった。
 現在は埼玉県在住の日本人が所有している。

中国人の足跡は何もなし

中国は尖閣諸島に何の足跡も残していない。それに対し、この膨大な資料は尖閣諸島海域での先島諸島、 沖縄本島漁民たちの明治初年からの長い漁業活動の歴史を伝えてくれている。尖閣諸島の領有権を考える上 で忘れてはならない貴重な歴史である。
だが、わが国政府の対応は今に至るまで余りに消極的に過ぎた。明治政府は、明治初期の「琉球処分」以来、 沖縄の反対勢力と旧宗主国だった清国(中国)を恐れ、沖縄の改革に腰が引けていた。明治政府の事なかれ主 義は尖閣諸島の扱いでも同様だった.
 内務省の命を受け明治18年、沖縄県は「沖縄県と清国福州との間に散在する」無人島を調査した。その結果、 清国帰属の証拠は少しも見当たらず、「無主地」として、国標建設(領土編入)を要望する旨の上申書が沖縄県令 から提出されたが、井上馨外務卿は反対の態度を取り続けた。その後の沖縄県から明治23年と26年に領土編入の 上申書が提出されたが、明治政府は放置した。そして日清戦争の勝利が確実となった明治28年1月、突然、 尖閣諸島に標杭建設の儀は差し支えないとの閣議決定が下された。


 政府の及び腰が脅威を招く

 明治18年以降、領土編入までの10年間に3回の調査を重ねながらも、明治政府は沖縄県からの「領土編入」の上申 を受け入れなかった。対中(清国)関係を重視して渡航を自重させるでもなく、慎重な調査を続けるでもなかった。 何もしなかったのである。
 尖閣諸島へ渡ったのは、明治政府や沖縄県の役人など調査の関係者ではなく、先島諸島や沖縄本島の漁師たちだった。 夜光貝、アホウドリの羽毛など換金性の高い漁獲物が廃藩置県後に沖縄に流入した寄留商人に大量に買い取られ、 那覇港から輸出された。
 領土編入以来、100年を経た現在、またも日本政府の対中及び腰で、尖閣諸島の周辺海域に頻繁に押し寄せてくる 大量の漁船からの「中国の脅威」にさらされている。漁船といっても、漁民を装った民兵の船や武装漁船である。
 これらの船舶による侵犯状態が続き、漁船保護目的で中国海軍艦艇が展開するようになると、尖閣諸島は「中国の 領土」、周辺海域も「中国の海」となって、先島諸島と沖縄本島の漁民は中国政府の許可を得ないと操業できなく なってしまうだろう。日本政府は、これらの諸島の漁民たちの、明治以来の尖閣諸島や周辺海域での活動を無にし てはならない。
(ひらまつ しげお)


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