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尖閣諸島の自然・開発利用の歴史と
         情報に関する調査報告

―沖縄県における地域振興・島おこしの一助として ―

4.図解:戦後における尖閣諸島南小島周辺での鰹節製造
                           画:新里 堅進

・1950年代における沖縄漁夫の活躍―主に宮古島を中心として。



 戦後の短い時期であるが、尖閣諸島において沖縄漁夫の一部は同諸島の開拓跡地を利用、鰹漁及 び鰹節製造に従事した歴史がある。石垣島の漁夫は魚釣島の北西にある石垣跡で、宮古伊良部島 漁夫は南小島北西にある石垣跡で、宮古池間島漁夫は魚釣島南側海岸を拠点として、それぞれが 鰹漁と節製造を試みた。
 冒頭の写真の方々は1950年代にかけて尖閣諸島へ出漁していた宮古漁夫の方々であり、幸い皆さ んご健在である。今回、写真の方々他出漁経験のある漁夫の皆さんから当時の状況を聞取った上 で、劇画家の新里堅進氏に鰹漁及び鰹節製造の様子を描いて頂いた。



 1949年冬から1950年初め頃、宮古伊良部島の漁夫らによって、南小島北西海岸にある石垣跡に鰹節の 仮工場が設置された。岩山斜面の麓に石垣跡が見える。


 鰹竿釣り漁は数ある漁法の中でも勇壮を極める漁である。黒潮の荒波の中、次々と鰹を釣り上げる鰹漁船と漁夫ら。

真鰹(マガツオ)
方言名:アヤガチュー
    ヤマトガチュー
 本来沖縄地方における鰹漁の時期は4月頃から開始され真夏にそのピークを迎え10月頃までには漁期を 終える。が、尖閣諸島周辺では11月から2月にかけて真鰹の大群が釣れたと言う。


 鰹竿釣り漁は針に生き餌をつけないで鰹を釣り上げることが殆んどである。生き餌は鰹を水面に浮上 させるための撒き餌として多くが用いられる。針には疑似餌(ギジエ・サビキ)という人工の装飾を施し、 鰹を騙して食いつかせるのである。


疑似餌:鉛で作った重しの上から鳥の羽とブダイの鱗等で飾り付け、針を隠す。

漁を終えると鰹船を島の周辺に沖泊めし、サバニで鰹を浜に水揚げする。水揚げさ れた鰹の頭とハラワタを取り鰹節の製造へと移される。
製造工程1:頭とハラワタ取り。
 頭とハラワタをとった鰹は数時間寝かされる。これは鰹の鮮度が良すぎると節製造中に身割れを起こ す為、身の鮮度を調節する行程である。
 調度良い状態になると身割りに移る。
製造工程2:身割り。 鰹の身と中骨とに分け三枚に下ろし、製造する鰹節の型に応じて切り分ける。

 四つ割りにされた鰹の身。 大きさによって、四つ割り、雄節(背の部分)と雌節(腹の部分)に分けるか、分けないままの亀節( 三枚下ろしの状態)に切り分ける

 煮籠:鰹を炊く際に使用する容器。約1m四方の木製であり、この容器に身切りした鰹を敷き詰める。

 セイロ:鰹を焙乾する際に使用する容器。両端に持ち手が付いており、製造途中の鰹を運んだりす る際にも使用する。


 製造工程3:鰹の釜入れ(煮炊き)。四つ割り等鰹の身割りを終え、いよいよ鰹に火を入れる作業が始 まる。鰹が丁寧に並べられた煮籠を10段程度に重ねて釜に入れ、沸騰しないよう火加減を調整しなが ら鰹を炊く。無人島である尖閣諸島南小島には鰹節製造の道具がある筈もなく、図に記されている鍋 釜やセイロは全て宮古伊良部島から運んで行ったそうである。


 製造工程4:鰹節の焙乾。煮炊きされた鰹を取り出した後、粗熱をとって冷まし、身に残っている小 骨等を取り除いた後に鰹の焙乾作業へと移る。図は1958年頃に南小島で製造した際の聞取を描いても らったもの。常に火を炊きつけながら焙乾したのだろうか。鰹を並べたセイロを1段から2段に重ねて、 10日間から2週間近く火を炊いて鰹節に製した。
 1950年頃に南小島で鰹節を製造した方の話によると、その際は岩を皆で運びコの字型の竃をこし らえ、セイロを四五段重ね、1週間程度焙乾した。製造された鰹節は宮古平良港に運ばれたのち、 そこから沖縄本島那覇へと送られて売り捌かれたようである。

 無人島へと戻った尖閣諸島の島々、南小島北小島ではカツオドリやセグロアジサシ、アホウド リといった海鳥らが島の主として平和な時を過ごしている事だろう。
 カツオドリ:南小島に多く生息する。 その名の通り、鰹などの魚群に付くため漁夫にとっては鰹釣の際の目印になる。


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