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   古賀辰四郎と尖閣諸島の開拓


令和元年(2019年)9月

尖閣諸島文献資料編纂会

            
 令和元年、古賀辰四郎(福岡八女出身)没後101年周年。 この節目に 尖閣開拓の偉業を紹介し、古賀への再評価を。 故郷八女に古賀兄弟の墓碑があり、人知れず眠っている 尖閣の遺跡、ヤギ被害や台風で破壊され、消滅の危機にある。

 古賀辰四郎は、福岡県が生んだ偉大な開拓者、先駆者である。
. 尖閣諸島経営は偉業であるにかかわらず資料が少ないため、多くの謎に包まれている。最大の謎は、 大正期に入ると、突如開拓事業を中止し、尖閣諸島から撤退した。
 この理由として、アホウドリを乱獲し、略奪経営したため、 資源の滅亡を招き、開拓事業を辞めたとされている。
 最近の資料調査により、これは大きな誤りだと分かった。
 古賀は、尖閣諸島開拓は「帝国産業界に貢献する」という大志を以て、使命感に燃えて取り組み、 大きな発展を遂げてましたが、突然、事業中止に追い込まれ、尖閣諸島から撤退を余儀なくしたわ けである。
 そして、大正7年(1918年)、志半ばで、62歳で亡くなった。
 古賀一族が彼の偉業と栄誉を墓碑に刻んで、末代まで語り継いでいた事実も明らかになっており、 この墓碑は故郷福岡八女の山中の墓地に人知れず眠っている。
 また、往昔の開拓当時を語る遺跡は、野性ヤギによる食害や台風で破壊され消滅の危機にある。 これは歴史遺産として価値あり、国による早急な遺跡調査と保全が必要である。
 1、明治12年八女茶売りで沖縄へ 貝殻(釦用)に着目し、海産物商になる。
 八重山に進出、尖閣諸島の夥しい海鳥の話聞き、島を借受け、開拓事業に精励。
 明治12年八女茶売るために、23歳で沖縄へ渡島した。海岸に打ち捨てられ、うず高く積まれた貝殻 を見て、貝ボタン原料になると気づき、海産物商に転じ、これで富を成す。
 ほどなく、八重山に進出、漁師から沖合の絶海の孤島、無人の島には夥しい海鳥が生息し、天空を乱舞してい るとの話聞き、尖閣諸島に着目する。
 明治29年尖閣諸島がわが領土に編入されるや、国から30年間無償で島を借り受け、開拓事業に着手している。 専門家に現地調査を依頼し、助言を得て、開拓計画を立てました。岩山を切り開き、平地3千坪を造成、季節 風除けとして堅固な石垣を驍らし、家屋を建てた。
 海岸の珊瑚礁の岩盤を爆破し、船が出入りできる掘割(船着場)を造った。
 また、山林を開墾し、耕作地は60町歩(18万坪)に及び、食料の自給自足体制を築いた。
 開拓事業は、アホウドリ羽毛と海産物採取からスタートし、海鳥剥製づくり、カツオ節製造などを行っ ていた。事業は年々発展し、開拓本拠地古賀村は、島で生産された産物を沖合に停泊した大型汽船に積荷す るため、掘割から多数の艀が行き来し、賑わいと活気に満ち溢れていた。
 明治41年には、島には2百余人居住し、「古賀の王国」と称される程に繁栄を誇っていた。


 2、明治42、古賀辰四郎、尖閣諸島開拓功績で藍綬褒章を授与される。
 これからが本領発揮、「帝国産業界ニ貢献スル」と壮大な計画を企図する。
 古賀辰四郎は、明治42年12月海産物商の実績と尖閣諸島開拓の功績が認められ、国から藍綬褒章 を授与された。沖縄県第2号だった。彼にとってこれからが本領発揮だった。
 古賀は「列島事業経営ハ帝国産業界ニ貢献スル所頗ル大ナラン」として、これが己に課せられた 使命であるとしていた。この実現に向けて壮大な計画を次々と打ち出した。
 5か年予算書(明治41~45年事業計画)を見ると、山林開発への意欲も示し、軌道に乗り始めた 鳥剥製は「監督者3名外150人」を雇入れる。またカツオ節製造事業も拡大倍増しカツオ船17隻新造、 「監督者3名外漁夫120人~220人」を雇入れる。またサンゴ採取事業にも乗り出し、掘割拡張工事も 計画している。
 古賀は、「帝国産業界ニ貢献スル」との心意気で、これらの事業に取り組んでいた。
 まさに、多忙多繁を極め、前途洋々たる列島経営だった。

 3、突如、尖閣諸島開拓から撤退、古賀村は廃墟と化す。
 これが最大の謎、古賀はアホウドリを乱獲し、絶滅させたから?
 明治43,44年の新聞は「古賀村は、百合根、グアノ肥料でも大忙しい」と報じている。だが、これを最後に、 尖閣諸島の消息はプッツリと切れる。どこにも出てこない。  大正4年3月海軍水路部の上陸調査から、古賀村は放棄され、廃墟となっていたことが分かった。なぜ、突如、 古賀辰四郎は開拓事業を中止し、島から全員が去って行ったのか? これが尖閣諸島開拓の最大の謎とされて いた。
 この理由について、研究者は、古賀がアホウドリを乱獲し、絶滅させてしまったから。彼の開拓は、略奪経営で、 資源を枯渇させ、引き合わなくなり、儲けがなくなったから、撤退したとしている。
アホウドリは、現在地球上で、小笠原と尖閣諸島2か所にしか生息していない国際保護鳥で、世界的に貴重な 鳥である。古賀辰四郎は、その尖閣諸島のアホウドリを恣に乱獲し、絶滅させた張本人と見なされている。
 今の環境保護者たちから見ると、この上ない極悪人である。
 だが、最近の資料調査からこれらが全く誤りであることが分かった。
 加えて、古賀が開拓事業を中止し、島から撤退した原因が明らかになった。


   4、大正元年8月の台風で、突如、古賀村は潰滅した。
   台風なら一度ならず、二度、三度ある。開拓事業を中止し、撤退を決意した。
 尖閣諸島に異変が起き、突如、古賀村は潰滅した。いったい、何が起きた?
 想定されたのは天変地異だった。地震、台風、高波・津波をチェックした結果、 大正元年8月28日、尖閣諸島は、突如未曽有の台風に見舞われ、開拓根拠地古賀村は一瞬にして壊滅したと思われる。 家屋建物は倒壊したもの、堅固な石積みのお陰で死者は皆無だったと考えられる。もしも、死者が出たならば、一大 事故として大騒ぎとなるが、当時の新聞は報じていない。石垣島測候所も「被害記録なし、台湾北部風水害甚大」と している。
 報せも受けた古賀は、尖閣諸島に駆け付け、変わり果てた光景を見て唖然としただろう。再建するにしても、台風災 害である。一度ならず、二度、三度もある。
 今回は不幸中の幸いといえ、死者はなかったが、次は大惨事になるとも限らない。
 古賀は、開拓事業の中止を決意し、島から撤退した。開拓民も島から去り、2度と戻ることなかった。
 以後、古賀八重山支店が雇い派遣したカツオ漁師が滞在するだけだった。
 大正4年に上陸した海軍水路部調査団は、破れ朽ちた小舎が数軒佇み、これらは床板もない、廃墟となった古賀村跡 を報告している。昭和に入り、戦時期には、カツオ漁師の派遣も中断し、ほどなく元の無人の島に戻って行った。


 5、古賀はアホウドリを絶滅させたのではない、略奪経営でなく、保護者だった。
 彼の汚名を晴らし、尖閣諸島開拓の正しい歴史を認識、再評価すべきである。
 古賀辰四郎と彼の尖閣諸島開拓については、3つの誤解がある。
 ①古賀の尖閣諸島の開拓経営は、略奪経営だった。その結果、アホウドリを絶滅さ せてしまった。 この見解は完全な誤りである。古賀はアホウドリの保護者だった。 古賀が列島経営から撤退したため、猟師らがアホウドリは乱獲し、絶滅早めてし まった。
 ②列島開拓は、アホウドリの乱獲や、事業が採算取れずに息詰まった。その結果、 古賀は尖閣諸島から撤退した。 これは開拓経営が息詰ったからでない。突然の台風 災害によって、古賀は道半ばで、撤退を余儀なくしたのである。
 ③古賀は列島開拓でうんと儲けた。巨万の富を築いた。 古賀は、蓄財、世俗的栄達  を追い求める小商人ではない。パイオニア精神溢れる事業家である。古賀は「列島ニ 対スル事業ノ経営ハ、将来拡張シ又新ニ着手スヘキモノ多々アリ」として、「帝国産 業界ニ貢献」すべく、大きな目標に向かって突き進んでいた。それが為、列島経営か ら得られた利益は、次なる事業への先行投資、開拓根拠地古賀村の諸施設建設に悉く 費やしていた。
 (これらについては冊子「尖閣諸島盛衰記 なぜ突如、古賀村は消え失せた」に詳述)。 古賀没後101年の節目にあたり、今こそ、彼の汚名を晴らし、尖閣諸島開拓の正しい 歴史を知らしめ、正当な評価を与えるべきである。


 6、古賀の人物像も、尖閣諸島開拓も、資料少なく、不明な点が多い。
 志半ばでの撤退を恥じ入り、己の過去、凡ての栄誉を葬り去ったのでは?
 古賀は、「列島ニ対スル事業ノ経営ハ、将来拡張シ又新ニ着手スヘキモノ多々アリ之カ経営ノ目的ヲ達セ ハ、帝国産業界ニ貢献スル所頗ル大ナラン」と明言していた。
 列島経営は、人生の全てを賭けたライフワークであり、己の志とする所、使命だった。
 艱難辛苦を乗り越えて、ようやく事業順調に滑り出していた。これからが本領発揮であり,万事が順風 満帆の途にあった。ところが、突然の台風襲来で、古賀村は一瞬に壊滅し、全てが無に帰した。古賀は、 己の志、使命が道半ばで頓挫したのは、不徳の致す所とした。列島経営から撤退し約束違えたことを深く 愧じ入り、己は藍綬褒章を受章するに値せず、返却すべきとした。彼は誇り高き明治人だった。男子たる 者かくあるべしとの気高い精神を堅持していた。古賀村が全てが消え失せた今、栄誉も、名声も、何の意 味があろうか。  志半ばでの撤退を愧じ入り、これらは一切滅却すべきとして、己の過去を葬り去ったのでは ないか。当時の新聞報道、公文書の記録以外、彼に関係する諸々の物、彼の遺影写真すら ない。彼の栄誉を顕す様々な記録、ー大官貴顕との記念写真、書簡、綴り書、その中に克明に記し  ていたという日記もあったかも知れない。なぜ、これらは殆ど残されてないのか?
 思うに、古賀が生前に処分したとも考えられる。
 古賀辰四郎は、台風被災で被災した6年後の大正7年、62歳で病没した。
志半ばでの早過ぎた死であった。どこで、如何なる病で、亡くなった場所か、葬儀の様子 も分からない。息子善次は記していない。
 奇しくも亡くなった8月28日は、台風が被災した同じ日だった。


 7、古賀兄弟の偉業は、一族の誇り、墓碑に刻み、末代まで語り継いでいた。
 尖閣開拓にまつわる秘話、故郷八女の山中に墓碑は静かに眠っている。
 古賀辰四郎の列島経営は歴史に残る大偉業であるが、志半ばでの撤退を恥じ入り、己 の凡ての栄誉を葬り去ったと思われる。ちなみに、尖閣諸島の産物は、古賀辰四郎が 大阪古賀商店(長兄國太郎と次兄與助が経営)に送り、そこから国内外に販売さ れていた。
 古賀兄弟の亡き後、昭和9年には、古賀一族の人たちが、彼ら兄弟の偉業を、とり わけ三男辰四郎の藍綬褒章受賞の栄誉を、墓碑に大書し、一族の誇りとして、大切 に守り続けていた。写真の碑文を見ると、深く刻まれた文字1つ1つからも、それが ヒシヒシと伝わってくる。この墓碑は、古賀の生まれ故郷の八女山内村の山中に、人知 れず佇み、他所に知れ渡ることもなく、一族の末代までの誇りとして、親か ら 子へ、子から孫へと代々語り継がれていた。尖閣諸島開拓にまつわる秘められたド ラマである。
 この記念すべき墓碑は、昭和38年(1963)墓地が手狭となりの墓の移転に伴っ て、遺骨はお寺に預けられ、墓碑は埋められ、地下で静かに眠っているという。
 写真の墓碑は、埋める前に記念で撮った写真である。
 なお、古賀兄弟は故郷へ恩返しにお金を寄付をしたり、小学校へ図書館も寄贈した。
 八女にはそれらを記念するものが、今も残っている。


 8、古賀村の石積みは百年余の幾星霜にもめげず、盤石だった。
 だが、持ち込まれヤギが殖えたため、島は崩壊し、遺跡は消滅の危機にある。
 現在、尖閣諸島開拓の遺跡については危機的状況にある。
古賀村の石積みは実に見事、人力と根性で絶海の孤島に築き上げた文化遺産とも言えた。百年 余の幾星霜にめげず盤石だった。だが、ヤギが持ち込まれ、野性化し殖えたため状況は 一変した。ヤギの食害により、島の生態、自然は破壊され、崩壊の危機にある。
 古賀村跡も危機的状況だ。高波、高潮を防いでいた防波堤の盛土と草木が消失し、襲来する台風、高 潮にも耐えられず、石積みは崩壊しつつある。このまま放置すると消滅の危機 にある。これらは古賀の列島経営の歴史的偉業を証左するものであり、絶対に放 置させ、消滅させてはならない。我々は、百年の悔いを残さないためにも、先人た ちの偉大な事績を守り、これらを後世に、子々孫々にまで、正しく伝える義務がある。
 そのためには、国や関係諸機関は、尖閣諸島古賀村跡の遺跡を、急ぎ調査を為し、日本 近代化産業遺跡群に指定するなど、保全策を速やかに講じることを念願する。


以上については、編纂会の小冊子「尖閣諸島盛衰記 なぜ突如、古賀村は消え 失せたか?」に詳述している。