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尖閣諸島開拓の隠された秘話
福島安積から来た子供ら(11名) いずこに?


- 令和元年(2019年)8月 -
尖閣諸島文献資料編纂会



 明治41年福島県安積から子供たちが尖閣諸島開拓にやって来た。
 安積日和田から子供たち11名(11~7歳)が熊田平二郎に連れられてやって来た。
 何故に、遠方東北福島から、南最果ての尖閣諸島へ来たのか?
 この橋渡しをしたのが、安積疎水事業の功労者奈良原繁だったと考えられる。
 だが、古賀の事業はその4年後に、志半ばで頓挫し、開拓民全員が島を去ることにな った。かの子供たちはどうなった? 故郷日和田に、無事に帰り果たしただろうか。
 熊田平二郎と11名の子供たちのその後の消息を知りたい。
 福島民友の紙上で、この隠された事実を報じ頂き、彼らの子孫・関係者を探してほしい。
 以下に、写真をまじえて、概略する。

 1、「東北・福島安積の子供たち上陸す」明治41年5月の新聞に報じる。
 明治41年5月13日の琉球新報は下記のように報じている。
   ◎尖閣列島行きの小供上陸す 古賀辰四郎氏の経営せる尖閣列島へ移住すへき
   十一名の小供は福島縣安積郡日和田より熊田平二郎氏が連れ来たりが其の小供等の年
   齢を聞くに十一歳より七歳迄をりと云ふ。

 明治41年の頃には、福島安積から、海を隔てた沖縄まで来るのは過酷な旅である。
 しかも尖閣諸島は、わが国最南端の八重山諸島の遥か沖合の、黒潮回廊の荒海の只中にある絶海の孤島で、渡島は 至難である。故郷の日和田から目的地の尖閣まで何日要しただろうか? 東北からひたすら南へ南へ、日本列島を 南へ縦断する長旅―陸路海路併せて最低でも20日ほど要したと思える。

 (ちなみに、海路は大坂・沖縄航路に乗船:大阪発ち、神戸・鹿児島・大島経由で那覇着。次に先島航路に乗船: 那覇発ち、宮古・八重山・西表経由で尖閣諸島着となる) 北国の幼い子供たちにとって、初めて見る南の紺碧の海と空に目を輝かしたであろう。
目的地の尖閣諸島に着いたら、島の異様さー海賊の根城の如き、何人も寄せ付けない断崖険阻な地形。天空は無数の 海鳥が飛び交う光景に驚いたかも知れない。

 予想違わず島での生活は厳しく、慣れない開拓労働は過酷だったことが想像される。
 2、尖閣諸島の古賀開拓村の記念写真に、子供たちも写っている。
 開拓光景を写した写真の中に、子供たちの様子が写った写真が2枚あります。
 上:掘割(船着き場)に、鰹船(帆船)が帰って来た時の写真で、岸壁右端に、子供 たちが勢ぞろいしている。
 下:鰹釜納屋前で、客人を迎え、開拓民皆うち揃った記念写真。庇の左端に、5名の子供が写っている。


   3、なんのために連れて来たのか?
 永久移住者を目ざし 東北から、試験的に子供を雇い入れた。
   尖閣諸島の開拓者古賀辰四郎は、苦労して熟練労働者を確保しても、彼らが作業に慣れる頃には契約期間が過ぎてしまい、 辞めて、島を去ってしまうので、いろいろと不利益、不都合を被っていた。できるだけ、島に長く住みつかせて、開拓事業 に従事させる。
 このためにも、古賀は「永久的労働者ノ移植」の開拓方針に転換した。
彼は記している。「・・而シテ先ツ試験的ニ四十一年五月、宮城福島ニ縣ヨリ七歳乃至十一歳ノ貧児十一名ヲ丁年迄ノ契約 ニテ雇入レ、渡島セシムルコトゝセリ。但シ右ノ中二名ヲ除ク外ハ凡テ不就学児童ナルヲ以テ、該列島移住者ノ一人ナ ル山形県師範学校卒業生ヲシテ之ガ教育ノ任ニ当ラシムル予定ナリ」(明治42年「褒章下賜の件」)
※文中、「宮城福島ニ縣ヨリ」とあるが、新聞報道では11名福島安積日和田となっている。  このやり方は、沖縄糸満(漁民村)の「糸満売り」に倣ったものである。
 糸満漁師の雇い子(ヤトイングワ)方式を、安積日和田の11名の子供たちについて、「永久的労働者移植ノ計画」として 試験的第一号に導入したわけである。



 開拓民を定着させるため妻同伴も奨励した。
 下左端に乳児を抱いている母親もいる。明治41年

 4、尖閣諸島で、子供たちに、どんな仕事をさせたか?

 日常雑事をさせながら、仕事を手伝わせ、
以下の熟練労働者に育て上げることが目的だったのでは?
1、漁業、カツオ漁のエサ採り、カツオ漁師、カツオ鰹節製造
2、海鳥事業、剥製づくり


 魚釣島での鰹節製造光景 明治41年


南小島の天空を乱舞する無数の海鳥 明治41年

 5、どのような経緯で、遠路はるばる福島安積から?
 当時の沖縄県知事は奈良原繁(在職:明治25年~41年4月)である。彼は明治11~14年安積疎水事業(猪苗代開鑿湖疎水灌漑) を成し遂げた最大の功労者だった。明治16年静岡県令に赴任した後も、安積郡民は、疎水事業に対する彼の功績を忘れず 、終生感謝した。授産開墾に尽力した塚田喜太郎を鹿児島から呼び寄せたのも彼である。塚田の没後、明治22年に頌徳碑が 建立され、奈良原が塚田の碑銘、碑文を揮ごうした。
 大正4年4月に奈良原は病に倒れた。安積郡民はその報せを聞き、郡長を鹿児島に派し、医薬料として金500円と感謝状を贈った。 さらに疎水竣工後に建立した水力電気の工場及び製糸場などの写真を添え、疎水工事当時の用材で作った箱に納めて進呈した。
大正7年10月没したが、安積疎水水利組合は、彼の死を悼み、献花台を献上した。奈良原も、終生安積郡民に対する思いは深く、 明治41年沖縄県知事を辞するに際し、次のような歌を詠んでいる。  花かつみ安積の里に見し夢の  むかしぞ今は恋しかりける

 これらの一連のことから、安積郡民と奈良原の交流がいかに深かったかが推し量れる。 他方、尖閣諸島について見ると、明治28年1月、わが国に尖閣諸島を領土編入することが閣議決定されたのは、彼の知事時代 である。明治29年4月、奈良原県知事は、同島を八重山郡に編入、同年9月、内務大臣は古賀辰四郎に30年期限で無償貸与を認 可、同島の開拓が始まった。奈良原知事と古賀が昵懇の中であり、古賀の「永久的労働者移植ノ計画」に対して関心と理解を 示していた。このため、安積日和田から子供たちを連れてくる件については、奈良原が古賀に話し、その橋渡ししたのか? ならば、その経緯は興味あるものだ。奈良原が安積郡民の有力者(郡長?)に、その旨の手紙を書き、ことがスタートしたの か? その結果、熊田平二郎ら?が、子供たち11名が人選し、熊田も開拓の一人となりが連れて来たのだろうか?

 6、明治45年(大正元年)8月、台風の被害に遭う
 古賀の事業はその4年後に、志半ばで頓挫し、
 開拓民全員が島を去ることになった。
 かの子供たちも修業半ばで、島から立ち去らねばならなくなった。
 彼らのその後を記すものは何も残っていない。
 彼らは、果たして、故郷日和田に、無事に帰り着いただろうか。

 古賀氏が撤退後廃墟となった魚釣島古賀開拓村 (新垣秀雄1952)


 7、熊田平次郎と子供ら11名のその後の消息が知りたい。
 1、子供たちの子孫は孫か、ひ孫の時代、日和田に関係者がいるのでは?
 11名の子供たちは、明治41年(1908年)には11歳から7歳だから、今年の令和元年(2019)から数えると111年前になり、 今生きていたら、122歳から118歳となる。
 もしも、彼らの子孫関係者がいるとしたら、100年以上(2世代から3世代)前になるから、彼らの祖父か、曽祖父の体験で ある。
   彼らの孫やひ孫たちが、ジーちゃんが明治の頃に、沖縄より遥か南にある無人島に行った。無数の海鳥が棲んでいる絶海の 孤島で、鳥毛を採ったり、鰹節づくりを行っていた。そんな尖閣諸島でのジーちゃんの体験談を親から伝え聞いた人がいる かと思う。
 11名の子供たちのその後の消息を知るためにも、関係者をぜひ探してほしい。

 2、引率してきた熊田平二郎は如何なる人物だったか。
 熊田平二郎は、安積疎水事業の関係者だったのか。それとも彼らから頼まれてただ子供たちを単に引率してきただけか。  また、この子らの教育担当することになっていた岩手師範卒業生というのは彼を指すのか。別人か?
 ともあれ、熊田平二郎彼は如何なる人物で、その後の消息はどうだったのか。
 彼の子孫や関係者を探し出せば、これらは明らかになろう。