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  尖閣列島鉱物資源予備調査に参加して
  大 城 盛 俊    

大城盛俊1940 年(昭和15 年)沖縄県知念村生まれる。 琉球大学卒、琉球政府通産局工業課、沖縄県自然保護課長、 沖縄県企画開発部次長を経、沖縄県地域・離島振興局長、 (財)沖縄県産業振興公社専務理事を歴任
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エカッフェ報告書が発端
 琉球大学元学長高良鉄夫教授は、1950 年、戦後初の尖閣列島の動物相を調査して以後、五次に亘る学術調査を 主導し、同列島の自然や生物相、天然資源の解明に大きな成果をあげていた。
 私は、当時(1968 年)、琉球政府通産局工業課鉱山係に勤務していたことから、幸運にも、調査団の一員に選 ばれて、尖閣列島へ行く機会を得た。
 今回、このときの体験記の原稿依頼を受けたが、なにしろ、38 年前のことでもあり、また手元に十分な資料が ないので、断片的に記さざるを得ない。
 1968 年、国連のエカッフェによる東シナ海海底資源調査報告で、東シナ海大陸棚の石油埋蔵が有望視されて、 尖閣列島が脚光を浴びるようになった。
 尖閣海域に大油田があるとの大朗報だった。(現在、日中間で、東シナ海ガス田問題が深刻な事態に陥ってい るが、政府の国家的政策の欠如と甘さに起因している)。
 当時から日本政府の尖閣列島や東シナ海油田開発に対する認識は低かった。 真っ先にこの重大さに気付いたのが、沖 縄懇専門委員高岡大輔氏(元衆院議員)だった。この大油田が開発されれば、沖縄の経済振興と日本全体の繁 栄に大きく寄与できる。
 氏は日本政府は一日も早く、賦存状況を 調査し、対策を講じなければならないと、政府部内の説得に奔走し、資源予備調査の了解を取り付けた。

 日本政府から協力依頼を受けた琉球政府は色めきたった。
 鉱物資源所轄部局の工業課も俄に忙しくなった。
 ところが私たち関係者には未知なる孤島、誰も行ったことがない、調査計画も立案できない。唯一頼みになる のは高良教授だった。
 調査案内と計画の助言を求めるなどして、調査内容と人選が着手された。
 調査船は琉球水産研究所所属の図南丸(159 トン.赤嶺正次船長)に決定した。
 かくして、沖経懇専門委員高岡大輔氏を団長とする「尖閣列島鉱物資源予備調査」(高 良調査団では五次調査)の調査内容とメンバーが決定された。 主目的の鉱物資源予備調査については、高岡委員に加えて、天然ガス分析の専門家兼島教授(水質調査)、所 管工業課から私が参加することになった。
 高良教授は海鳥など生物相調査、海洋調査は琉球気象台から伊志嶺氏と正木氏、八重山地方庁と石垣市から田 代氏と田盛氏が漁業資源調査(視察)。琉大経済研真栄城氏と茨城大学北岡助教授は尖閣の経済ポテンシャル 調査(視察)。また、台湾漁船領海侵犯、不法操業、不法上陸が頻繁に行われているとの情報があり、対外的 問題が絡むと共に、警備上の配慮から、琉球政府から新城渉外課長と琉球警察局から平良・伊良波両巡査が派 遣され、松田氏(琉球新報社所属)がカメラマンとして特別参加することになった。

 実際に行ってみると、魚釣島の調査を終え、南小島へ向けて航行していたら、島陰に台湾漁船と思しき多数の 船(20隻ほどか?)が停泊していた。
 これらは竹で編んだ大きな籠を船上に積んで、海鳥のヒナや卵を満載していた。 島へ不法上陸して、片っ端から盗ってきたものだった。高良教授はこのままでは尖閣の海鳥は絶滅すると嘆き、 危機感をあらわにしていた。
 両巡査はカービン銃を携帯しているので、銃口を向けないものの相手にはっきりと分かる姿勢で、領海侵犯や 不法操業であることを告げ、退去を命じたところ、エンジンを始動し去っていった。

第三紀の砂岩(海成層)に安堵
 話は前後するが、魚釣島へ上陸のとき、図南丸の接岸できそうな地点は見当たらないので、リーフ沖に投錨し、 小さなボートで何回かに分けて上陸した。
 干潮時だったので、リーフ内に点在する穴に近づくと、30 センチ前後のイシミーバイ(カンモンハタ)が群 で顔を出してきた。丁度、池の鯉に餌を投げたら水面を押し上げて群がる様だった。そこで、ヒモで結んだサ ンゴのかけらを垂れると餌と勘違いしたのか、瞬時に呑み込むので、これをパッと引き上げて捕獲できる。何 とも不思議な体験を今でも鮮明に思い出した。ほどなく、全員が上陸し、各々、地形、地質、海鳥、生物相の 調査に向かったのだが、あとで、船員は一人で50 尾のミーバイを釣ったとの話を聞き、さもありなんと思った。 尖閣海域の漁業資源の豊富さを大いに実感せざるを得なかった。

 さて、沖合に石油が出るという魚釣島は、想像を越える懸崖険阻な地形だった。
 上陸した側は緩やかな傾斜地であるが、その反対側は海抜300 メートルの断崖絶壁で、高いビロウが茂り、鬱  蒼とした密林を成し、人を寄せ付けない嶮しい島である。
 限られた時間内に、急ぎ足で、海岸辺を廻りながら地質観察を行った。
 島の地質は第三紀の砂岩や礫岩から成っているのに安堵した。
 これらは海底に堆積して隆起した海成層である。(この海成層が石油の母岩となるのだ!!) 薄層の石炭が露出したのも観察したが、どの場所だったのか、よく憶えてない。
 編集係から魚釣島での調査員一行の様子は? と聞かれたが各々が自分の仕事に忙しく、誰が、何をしていた のか見ていない。高岡氏は海成層と油徴探し(?)、高良教授は海鳥観察、兼島教授は水採取に専念されてい たかと思う。

 島での調査を終えると、船に戻り、島の裏手を船で一周し、そこから次の予定地の南小島へ向かった。上空は カツオドリが群れをなして飛んでいた。南小島に上陸して驚いた。
 北端に突出した岩山があるが東南部の平坦なリーフの場所だったと思う。
 大きな座礁船(パナマ船籍のタンカー船だった)が解体され、台湾人の作業員が一杯いた。作業小屋や宿泊で きる仮小屋まで建てられていた。
 渉外課長の新城氏や平良・伊良波巡査らは不法上陸であると警告し、入国ビザやパスポートをとる手続きをし て、入国するようにと勧告していた。

北小島では、セグロアジサシが数え切れないほど棲息し、我々が足を踏み入れても、なかなか飛び立って逃げ ない様子だった。また鳥糞が10 〜 20 センチの厚さで堆積していて、分厚いジュウタンの上を歩いている感じ だった。

本格的探鉱調査をめざして
 さて、あれやこれやの体験をして調査から戻るや「尖閣列島で、石油は見つかったか?」と問われた。「いゃ 、否」と答えたら、怪訝な顔をされた。
 東シナ海大陸棚に、尖閣近海に、海底大油田があったとしても、島には天然ガスが噴き出していたり、地下の 石油が滲み出した油徴があるわけではない。
 たとえ、島中を草の根分けて探しても、ガスの自噴や油徴が見つからないからといって、大油田の存在を否定 するものではない。
 何となれば、たいていの場合、石油は海底深度数千メートルに奥深くあるのだから。
 石油は海洋の微生物が海底に厚く堆積してできたものである。従って、石油母岩の海成層(日本では大半が第 三紀海成層である)があれば、海底に石油がある確率が高くなる。海成層の堆積が厚いほど油層は大きい。
 あとは、どこに、どの位の規模で、どの位の深さに、あるかである。
それを磁気探査やスパーカーを使って探鉱し、掘削する地点を定め、ボーリング機械を使って地上高く噴き出 させる。
 高岡氏や私らがひたすら石油母岩の海成層を探していた訳はここにある。

 尖閣列島の視察を終えると、高岡氏の行動は素早かった。
 採取した岩石や水など専門家に分析してもらい、予備調査に参加した我々メンバーに対し、レポート提出を求 めた。
 それらを基に各界の最高責任者を集め、総理府で調査報告会を開いた。
 高岡氏の先見性は、尖閣列島の重要性について、政府部内や石油資源関係者に偏せず、海洋気象や水産、鳥類 研究、防災技術などトップの人達へアプローチしたことにある。
 「尖閣列島周辺海域の学術調査に参加して」(季刊 「沖縄」第56 号)に名簿と内容が記されているが、参加 者といい、内容といい、目を見張らせる。
 氏だからこそ、あれだけ各界のトップの人を集めて、尖閣の将来を見据えた議論を行い、いろいろな施策を引 き出すことができたと思う。
 尖閣への気象観測施設の設置、定期的な水産研究についての提言、無人灯台や緊急接岸港建設、海鳥など特別 保護区の設定等々が議論されている。
 高岡氏の尽力で、尖閣に対する所要な施策が俎上に上った。氏の慧眼と情熱に敬服する。が、氏の亡き後、遺  志と提言とがウヤムヤにされたのは残念だ。
 ともあれ、今回の尖閣予備調査で、海成層があり、石油がある可能性が高いと分かった。
 これからが大仕事のスタートであり、氏の本領の発揮の場だった。
 石油資源の開発は、莫大な金と数年から数十年の長い時間がかかる。
 まずは石油資源の探鉱調査だが、それにも莫大な金を要するだけに至難なことである。
 尻込みする政府関係者に対して、尖閣石油資源開発の重要を説き続けた。
 氏の報告書には、南方同胞援護会大浜会長や吉田専務理事らが共に奔走したことが記されている。彼らの努力 が功を奏し、総理府は予算措置を講じることに承諾した。
 その結果、総理府による調査船東海大学丸二世号(702 トン)を駆使した「尖閣列島周辺の海底地質調査」が 始動することになる。1969 年5月の第一次調査(新野弘団長)、翌70 年5月の第二次調査(星野通平団長) がそれである。

学術と資源へ二分岐節目の調査
 高岡氏は、68 年7月の尖閣鉱物資源予備調査を敢行し、この成果を以て、政府部内の尖閣石油資源に対する認 識を深めて、探鉱調査に踏み切らせることができたのは、 私も参加した一人として嬉しい限りである。 私たちの調査が実現し、円滑に遂行できたのも、尖閣調査へ先鞭をつけられた高良教授のお陰である。教授の4 回に亘る調査の積み上げがあったればこそ、成果を上げることができたといえよう。
 また、この調査(高良調査団では五次調査)を起点に、以後の調査を鳥瞰すると二つの方向(学術調査と海底資 源調査)に大きく分岐し、進展していることが分かる。
 高良教授が主導してきた調査は、生物相からスタートし、動物・海鳥・植物調査、漁業資源と鳥糞調査など多岐 の学術調査に及んでいる。
 1963 年の四次調査は、文化財保護委員会委嘱のアホウドリ調査だが、海洋調査(この時も伊志嶺氏が担当)を行 っている。70 年の池原教授らに引き継がれた琉大学術総合調査、九州大・長崎大合同調査や80 年の総理府によ る学術調査(池原・新納教授らが参加)等々は、前者の流れを受け継いで進展したものといえよう。 他方、高岡氏が先鞭をつけた資源予備調査は、69 年、70 年と東海大学丸二世号による総理府の「尖閣列島周辺 の海底地質調査」へと大きく進展している。
 この資源調査には、琉球大学から兼島教授や野原朝秀教授(地質学)らが、そして工業課から仲村将市係長が参 加した。
 この様なことからも尖閣調査の歴史の上でも節目の調査だった言えよう。

最後に目下、日中間で問題になっている領有権問題に一言ふれたい。
 私は、1964 年から70 年まで琉球政府で鉱山行政に携わったが、72 年復帰に伴い、鉱山(業)行政は国家事務 へ移行した。従って、尖閣資源調査や鉱業権出願の取扱いについてもどうなったか、経過は分からない。しか し少なくとも、尖閣列島の領有権問題には、復帰前までは、即ち米国統治までは、琉球諸島の一部であること に疑問の余地はなかった筈である。かつてカツオ工場が稼働し、土地登記や人々が居住していた事実、現在も 米軍の射爆訓練地となって軍用地料も支払われている筈である。
 紛れもなく日本国の一部である。
 昨年、沖縄県議会でも、島根県議会の「竹島の日」条例成立に触発されて、尖閣(諸島)列島が沖縄県の一部  である旨の意見書が採択されたが、遅きに失した感がある。
尖閣列島は安全保障(国土保全)面、石油資源問題、漁業問題の上から極めて重要な位置と意義を有している ことから、実効的措置を講じることは愁眉の急であると考えている。

 今回、高良尖閣調査団の資料集が発刊の運びになったのは慶事である。
 参加した一人として喜びに堪えない。
 昨今の尖閣をめぐる状況は逼迫し、課題は山積しているが、国民的関心も低く、対岸の火事、他人ごとで受け 止められている。一人でも多くの国民が尖閣問題に関心を寄せてくれることを願いつつ、拙い筆をおきます。

 追記、1966 年頃、日政技術援助により、那覇市国場で天然ガスのボーリング調査を行った。中南部の地質構 造から天然ガスの賦存が予想されていたので、実際に深度400 メートル超のボーリング調査を行ったところ、 予想以上の成果が得られた。そして、東シナ海の石油資源調査報告があり、石油・天然ガスに対する期待が高 まった時期であった。
 この頃には故大見謝恒寿氏(那覇市出身)が、石油・天然ガスの試掘権出願を沖縄の北端から与那国、尖閣列 島まで、陸域、海域を覆う形で申請したので、許可処分事務に忙殺された。出願印紙代が1ドル360 円時代の 40 数万ドルだった。私財を投げ売ったとしか思えないほどの巨額である。小生の月給が60 ドルの頃だった。



※「尖閣研究 高良学術調査団資料集上」(2009年刊)より転載しました。


調 査 異 聞

     高岡氏、超多忙なスケジュールの中での尖閣調査
    将来を見通した提言はウヤムヤ、燕雀は鴻鵠の志を知らんや

 高岡大輔氏は、かつて国会での沖縄問題三羽烏の一人として尽力した。
 今日の沖縄は氏の努力に負うところが大である。
 が、遺憾にもその功績は正しく評価されていない。 戦前は台湾総督府政治顧問、インド独立運動指導者チャンドーラ・ボース氏を支援するなど、国際舞台を飛び 回り、グローバルな思考、100 年先を見通す慧眼の持ち主だった。
 尖閣列島問題に対する認識は抜群であり、常に政府の尻の叩き役でもあった。
 氏ほど将来を見通していた人物はいない感さえする。
 だが「燕雀は安んぞ鴻鵠の志を知らんや」で、未だに、高岡氏の提言や警告は実行されずウヤムヤ、その結果、 中国に翻弄され、混迷したぶざまの状態に陥っている。
 1968 年、エカフエの東シナ海海底油田調査を知ると、日本側も遅れてはならないと政府へ資源調査を提言し、 沖縄懇専門委員として自ら尖閣列島へ赴いた。そのときのスケジュール表がある。


高岡氏スケジュール表 (沖縄県公文書館所蔵)  これを見て驚いた。7月2日の那覇着から21 日帰るまでの19 日間は超過密スケジュール、分刻みの予定が組 まれている。米軍政府や琉球政府の各局長、市町村長関係者、パインや糖業、漁業関係者との懇談や仕事等々 でぎっしりだ。
 本命の尖閣調査に要したのは僅か5日間である。よくぞまぁ、これだけの仕事を見事こなしたものだと感心し た。しかも帰任してからの事後処理も大変である。

 尖閣調査についても即座に行動に移し、各界の要人を集めて意見をとりまとめ、日本政府筋に働きかけて、東 海大学丸U世号による尖閣列島海底資源調査を実現させている。
 氏の先見性と情熱、超人的な行動力には舌を巻かざるをえない。

 ※本コラムは、「尖閣研究 高良学術調査団資料集下」(2009年刊)より転載しました。




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