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  調 査 追 想 4 題   高 良 鉄 夫

高良鉄夫:1913 年(大正2 年)沖縄県本部村に生まれる。鹿児 島高等農林学校卒、八重山農林高校長、琉球農林省農改局研究課 長、琉球大学助教授、教授、農学部長、学長を歴任、日本蛇族学 術研究所評議員、沖縄県脳卒中等リハビリ推協名誉会長、首里城 下にチョウを翔ばそう会会長、農学博士、琉球大学名誉教授

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1.海鳥ヒナの特訓を探し求めて
 筆者が尖閣列島の海鳥に興味を誘われたのは海鳥ヒナの特別訓練である。
 戦後の青少年の精神的な動揺を如何にして訓育すべきか、そのまま進展すると大きな社会問題をかも すことになるので、尖閣列島における海鳥ヒナの特訓を究め、それを人生、特に青少年の訓育に活用 すべく、尖閣列島渡航の極秘のひとつとして特別訓練を胸中に描きながら、予備調査のため単身漁船 に便乗した。
 古書をひもとくと恒藤規隆著「南日本之富源」(明治43 年 博文館)第二編琉球列島、第六章沖縄県 下の無人島、第二節南北小島の項に次のことが述べられている。

 此に其等海鳥の産卵後、各々雛を育てるにつき一場の興味ある物語を告げた いと思ふ。卵が孵化して後、ヒナの成長に応じて為す所の親鳥の訓練は、極めて 規則正しく行はれ、恰も吾人々類の練兵に於けるが如く、其状況たる実に奇観を 呈するのである。
 即ち彼等の雛が稍々歩行に慣れ、数歩の遊歩に差支なきやうになれば、茲に各 部落に連れて往って、一羽の親鳥が多数の雛に向って飛翔を教へる。 例へば親鳥が翼を拡げると、幾十百羽の雛が其通りの真似を行る。其状却却に 見て面白く。之を行ふこと殆んど毎日、或は羽翼を伸ばし、或は筋骨の発達を促 すが如く、其秩序的なる鳥の業とも覚えぬ程である。
 斯くの如くして段々飛行に馴れて来ると、初めて島の周辺の極く浅い所へ誘致 して水練を鍛え、若し是等の雛が深水に到れば、太だ警戒に努め、彼等が鱶に呑 まれる危険を避けることを知らしめ、そして之に対する防衛の手段を悟るやうに なれば、親鳥も離れて自由行動をなし、三四月頃には島を去るのである。
(原文のまま)

 野生動物にしては、実に素晴らしい。この実情を求めて数回にわたる渡航は、それを重点に各島を踏 査した。ヒナの特訓が行われていた海鳥の種類は特定されていないので、アホウドリ、カツオドリ等 の大形鳥とセグロアジサシ、クロアジサシ等の小形種に区分し、各島の周辺地形を調査した。但し黄 尾島は海上より双眼鏡を用いて調査した。
 その結果、南小島の東北部に訓練場として適当な広さの低平地をみつけた。
 そこは恒藤氏の著書によると、古い時世には、カツオドリの群集地になっているが、著者の第二次調 査(資源調査1952 年)や第三次現地教育(琉大生教育引率1953 年)では、クロアジサシとカツオド リの密集地になっていた。
 特訓をしていた海鳥はクロアジサシであろう。特訓のポーズ一齣を確認することができたのは幸いで ある。

 ところが第四次調査(アホウドリ調査)の際、再び同島の同地域を往訪したが訓練場としては面影も ない。カツオドリは人間が近づくと、「バガー!!」と大きく鳴き叫んで飛び去る。それで漁師たち は「バガドリ」もしくは「バカトリ」とも称している。
 そのカツオドリは乱獲され、クロアジサシは数える程に減っていた。ヒナや卵は外国漁船によって乱 獲されていることは明らかである。この広場に人が通った小路が出来ていた。
 実質的に、クロアジサシ、カツオドリの特訓が見られるのはいつの日か、海鳥の繁殖状況から推考し て、今世紀中には見られないことであろう。返す返すも残念である。
 人知れぬ僻地の無人島、海鳥の世界では 奇想天外の訓育(特訓)が行われていたことに絶大な感動を覚える。

2.海鳥の残酷物語
 その一.北小島の海鳥調査中の昼下がりの椿事である。
 どこから来たのか1羽の伝書バトらしいのが北小島に迷い込んだ。
 当時、北小島の地上部は、セグロアジサシの縄張り、地下部はオオミズナギドリの縄張りになっていた。地 上部はセグロアジサシの密集地、このような雰囲気の中にハトが迷い込んだのである。ハトはあっと言う間に セグロアジサシに上空で鋭いくちばしで打ち落とされ、目玉はすでに打ち抜かれていた。10 数羽の特攻隊鳥ら しい猛攻撃にハトは衆寡敵せず、見ているうちに血まみれになって息絶えた。 この修羅場の巷を風下で見ていた著者は、夏の海鳥糞の格別なガス異臭に、ふらついていた折柄、早く風上に抜 けるべく、身の置き場を探し求めていた。
 折りも折り特攻隊鳥らしいセグロアジサシの仲間は、筆者のムギワラ帽子のつばをはたいて通り抜ける勇敢なの もいたので背筋が寒くなり、北小島から早期に離れた。
 海鳥による野鳥への仕打ち残酷物語の一椿事である。
 時たま見られる北小島におけるメダイチドリの惨死体は、そのような残酷によるものであろう。 海鳥と野鳥の間に、食べ物の競合があるわけでもないのに、塒(ねぐら)による競 合であろうが、同じ野鳥の渡り鳥メダイチドリが魚釣島に迷い込んだものは、南下の 好機を狙って過ごしているのに、海鳥は少し粗暴のようだ。絶えず海中の活魚を追い回しているためであろうか。

その二.南小島のほぼ中腹に1株のガジュマルが生えていた。
 長期にわたって潮風に吹きさらしにされたためであろうか、姿勢はまるで天然の盆栽である。高さ1メートル、 無数の気根があり、その中には長く伸びて支柱根になっているのもある。オオミズナギドリは主根と支柱根との 間に巧みに出入口を設けて、厳重に外敵の侵入防止に努めているようだ。
 オオミズナギドリは、南小島では数少なく、通常日中は海上にいるが、その日は地中巣にいたものだ。多分、ヒ ナか卵を保護していたのであろう。
 警戒怠りないオオミズナギドリの巣穴の門前でカツオドリのヒナは散歩と洒落て、ウロウロしていたところを、 興奮していたオオミズナギドリに見つかり、ひどい仕打ちに遭っている。カツオドリのヒナから見れば正に生き 地獄である。
 最初から右足首を咬み、自分の巣穴へ引きずり込むことができず苦労しているらしい。
 オオミズナギドリの巣穴の出入口から、のたうちまわっているカツオドリのヒナを救出して調べたところ、指は  皮を剥がれ血みどろ、足指はすべて骨折している。
カツオドリの母親は、どのように治療するのか、特段の治療法があるのかを、確かめたかったが、カツオドリの ヒナに幸あれと祈りつつ、船の都合で惜しくも島を離れた。
 カツオドリとオオミズナギドリは隣り合わせに居ながら仲が悪い。
 江戸の敵は長崎で討つの図式は、いつでも持っているようだ。

3.セグロアジサシの古里慕情と終焉の地
 石垣島を出て翌早朝、尖閣列島が見えたと言う船長のきびしい声が、割れたような荒波の中から耳にとまる。船長 室から揺れる手腰で、はるか前方をながめると、南北小島が兄弟分のように位置している。木の葉のように揺れる 機帆船の中から見ると両小島とも、きびしい岩骨の島である。往時の小説に出る鬼ヶ島を連想させる。 島に近づくにつれて海鳥相が明らかになってくる。
 南北小島は、僅かに200 メートルしか離れていない、そこにおける海鳥相は、著しく異なる。それは地形、地質に 関連しているようだ。
 両小島とも樹木はほとんどない。両小島の土砂は、僅かに点在するにすぎないが、北小島の中部台地は土砂に富ん でいる。両小島ともに見れば見るほどに物寂しい。
 さて、第二次資源調査の際、真っ先に南小島に、上陸したが、翌日台湾坊主(台湾海峡で突然発生する低気圧)に 襲われた。
 上を下への大さわぎ、ボートはやっと陸上に引き上げたものの、宵闇迫る黒潮にチャター船の基本丸はどこへ避難 したのか、全くつかめない。翌昼間になっても姿を見せない。
 食料品はすべて船積みのまま、島に置き去りにされた各人が妄想をたくましくする中、ロビンソン・クルーソーが 連想されて現代版の主人公になるかと気にする者も、(註:ロビンソン・クルーソー、船員だったロビンソン・ク ルーソーは難破して犬と無人島に漂着して自給自足の生活を築き、探検心と経済的合理主義の精神を確立したこと で有名)。
 テント舎は吹き倒され、見る影もない。命からがら洞穴へ避難した。 西空は未だ明るい、対岸の北小島の海鳥とくに地上で生活するセグロアジサシの行動を双眼鏡で観察していたら、 まさに前代未聞の椿事に注視した。

 健全なセグロアジサシたちは巣に蹲り落ち着き払い、風の方向に体を整えている。
 が、あれよあれよと言う間に無造作に空中に吹き上げられた物がある。
 吹き上げられているのをよく見ると、巣物の他に、ヒナ、老骨らしい長老鳥 病弱障害者らしい弱体鳥、ミイラ、 その他が、崖下の青海原へ落下する。
 青海原は先刻から何者かがざわめいていた。崖下には白波を立てて何者かが待機していた。荒波の中を黒いヒレが 上下し、遊泳していた。それはサメ(フカ)の群衆だった。
 哀れなる哉! 海に落下したものは、すべて彼らの好餌食になる。
 岩骨の島は風が猛威をふるう度に無防備のセグロアジサシたちを空中に吹き上げる。
 彼らを保護するためには、土砂のある所にはススキを植栽し、岩石地には最も乾燥に強いギンネム、ガジュマルを 播種することが望ましいと思った。
 北小島の地下部に生息している穴住まいのオオミズナギドリは卵殻の保全、排水の状況から見ると台湾坊主等台風 や突風の影響は余りないようだ。
 筆者の関心はサメたちにもあった。台湾坊主が吹き荒れ出すと、一斉に崖下に蝟集し、大きな口を開いて落下する 獲物( 餌) にありついているが、先刻から白波を立てて待機していたのを見ると、この味をしめて、サメたちは台 湾坊主の発生を、何らかの手段( 感覚) で事前に感知し、我先にと崖下にはせ参じたかもしれない。

 沖縄本島、本部村字備瀬で体験したことだが、普段見られないカラスが突然、人家に現れた。4キロ先の山からや ってきたものだった。不気味な鳴き声を発しながらその家の上空を旋回したり、屋根や軒、屋敷の囲い木に止まっ たりしていた。カラスは不吉な死を知らせると聞いていたが、数日後にその家に死者が出たのには驚いた。カラス は人に死期が迫っていると感知して飛来してきたのだろうか。だとすれば、野生動物の予知感覚は人智で量り知れ ないものがある。動物の予知行動の研究は今後の課題ともなろう。

 先のセグロアジサシの話に戻るが、彼ら海洋鳥は大半は洋上で過ごす。
 繁殖期になると卵を生みヒナを育てるため古里慕情で、尖閣列島に戻り来て営巣し、毎日青海原へ向けて飛び立ち、 食物( 魚) 採りに勤しんでいる。
 食物を手に入れることができるのは、身体健全な成鳥である。
 卵からヒナが孵ると、せっせと食物が運ばれる。
 ヒナは親から食物をもらい、手厚い保護を受けて後生大事に育てられる。
 が、老いたものや病弱なものは自力で食物を得なければならない。彼らに手を貸すものはいない。自活が出来なけ れば、あとは死を待つしかない。
 生きとし生けるものにとって、「生老病死」が自然の摂理であり、過酷な自然のなかで自力で食物を得ることが出 来なければ駆逐されるしかない。
 これが野生生物界の厳しい掟であり、自然淘汰の法則である。
 それを物語るように岩山や崖下の岩棚には、野ざらしの遺骸=ミイラとおぼしきものが幾つも散見された。台湾坊 主が吹き荒れると、これらミイラと一緒に、強風に抗うことができない老いたものや病弱なもの、虚弱なヒナたち が一掃される。
 空中に吹き上げられ、崖下に落下して、待機しているサメの餌食になり果てる。
 彼等は古里慕情で戻り来たって、期せずして古里の海で生を終えたといえよう。
 これは北小島のセグロアジサシだけに当てはまるものではないだろう。
 このように見てくると、尖閣列島の海洋鳥にとって古里は、同時に終焉の地でもある。 筆者は、南小島で思いがけずも、台湾坊主に遭遇して、尖閣列島の海洋鳥たちの自然淘汰の厳しさを、大自然の玄妙 さの一斑を、垣間見て万感の思いをもった。

4.無人島のヘビの墓場
 雄大な海流黒潮の真っただ中に、数個の無人島がある。 それは僻遠の尖閣列島で、石垣島の北北西およそ170 キロ、10 馬力の木造機帆船で石垣島から、およそ15 時間かか る。
 夕刻石垣島を出航した盛海丸は、翌早朝、尖閣列島が見えた、と船長は告げる。
 1950 年3月、筆者は海鳥の生き様を求めて、単身漁船に便乗したが、最初に上陸したのは、魚釣島(3.33 平方キロ )である。
 海上から眺めた魚釣島は、全島亜熱帯の緑におおわれ、高く抜き出たビロウ(俗にクバ)の春風にそよぐ風情は、旅 人を歓迎しているようで、心が和む。
 上陸早々、筆者を迎えてくれた野生動物は、無人島の王者、大形のシュウダ(臭蛇)である。無人島育ちのためであ  ろうか、人を見る眼は異様に輝き、筆者をにらみつけている。
 抜き足差し足、シュウダに接近し、毒の有無を調べた。
 頭部が三角形でないところを見ると、相手は無毒ヘビである。
 従来の報告によると、リュウキュウアオダイショウと記述されているが、青大将の系統ではない。シュウダに接近す ると、異様な臭気が鼻をつく。
 1952 年4月の第二次調査は、南小島から上陸して行った。


 島に近づいて驚いた。沖合いからみると島の頂部から海浜にかけて担い棒のようなものが、スルスルと流れ落ちてい くのが数カ所に見えた。
 あれは、いったい何だろうか。全く見当がつかなかった。
 それは後程にシュウダの大物であることがわかった。
 シュウダは、南小島へ、人間が、見慣れぬ者が、近づいてきたので、好奇心をかき立てられて下りてきたのだろう か。上陸してみると担い棒のように見えたシュウダの大物たちは、転石の隙間にかくれ、人を警戒しているようで あった。
 無人島の王者はシュウダであることを確認したが、目に付くものすべてが、でっかいので気色が悪く容易に手出な い。蛇族の中で目玉をキョロキョロと上下左右に動かせるのはシュウダだけだ。その目玉で睨まれるとなお更で ある。
 だが、絞殺力は弱いようで、その体に触れると悪臭は容易に除去できない。
 臭気の起因は皮膚にあるようだ。
 そのとき筆者に随行した琉球大学学生上運天君は、炊事当番になっていたが、台湾 坊主の来襲に、チャーター船基本丸は、どこへ避難したのか、見当がつかない。
 翌日、真昼になっても姿を見せなかったのは前述した。
食料品はほとんど船積みのままてある。困惑した上運天君は、一時の飢えをしのぐためシュウダを食料に供すべ  く、シュウダの皮を剥ぎ取り、ぶっきりにして食膳に供した。如何なる味だったかは、50 年前のことなので思 い出せない。
 誰言うとなく美味しかったことは確かだった。
 調理にあたった上運天君は有頂天に喜ぶ。窮すれば通ずその諺がいきてくる。
 さて、記述は少し前後するが、単身で魚釣島滞在約2週間、同島を引きあげることになった。魚釣島で生き捕っ たシュウダの大物を鉄カゴに入れて石垣島への帰途は別の漁船、多分盛栄丸に便乗した。
 先ほどからシュウダを見詰めていた金城漁師は(盛海丸の金城老漁師とは別人)は、やおら立ち上がり、シュウ ダを指差しながら、「北小島にはこの種のヘビの墓場がありますが、御存じですか」と言う。
 ゾウの墓場については映画や雑誌等を見たり読んだりしたが寡聞にして的確な情報を得ていない。ヘビの墓場と は前代未聞、耳よりな話に聞き耳を立てる。
 金城漁師が語るところによると、自分(金城漁師)は少年の頃に、古賀氏に雇われ、 他のメンバーとともに、尖閣列島のすべてにわたって探検した、北小島には竪穴の洞 窟があってヘビの白骨が累積していた、とぎょろ目で強調する。
 悪臭がひどいので、再度の探検はしていない、と語る。

 ヘビの墓場は、北小島の西側の絶壁の所に奥行が5メートルほどの洞窟で、波打ち 際の崖っぷちにある竪穴にあるとのこと。
 さて、魚釣島で生き捕ったシュウダの大物を大学のハブ舎で飼っていた。
 シュウダの興味深い習性を発見した。
 シュウダとハブと一つの籠で飼うと、ハブはシュウダに食べられた。シュウダがハブを頭の方から呑み込んでい た。小さなハブだとよく食われる。
 ハブの分布を考えると尖閣列島にもハブは棲んでいたかもしれない。
 もしかすると、シュウダに食べられて、滅び去ったとも考えられる。
 ヘビの墓場には、シュウダの遺骸が、白骨が、長い歳月に亘り累々と堆く積もっていたというから、往昔の、太 古の時代の、骨もあるだろう。
 これら埋もれた骨を掘り起こし、骨相などを調べていけば、シュウダの習性を明細に知ることも、またハブの滅 亡の歴史ー過去の動物相の変遷、島じまの生い立ちも知ることができるかもしれない。
 筆者は好奇心を駆り立てられ、ヘビの墓場に限りなく魅了されてしまった。
 第二次調査では、南小島は1日目、2日目は北小島に渡島し、ヘビの墓場が探検できるのを楽しみにしていた。 ところが、南小島で初っ鼻から嵐に遭って、チャーター船基本丸が来なかった。
 お陰で、6日間も閉じ込められてしまい、計画の大幅変更を余儀なくした。
 衆議一決したのは、残る調査は魚釣島だけと相なった。
 後髪を引かれる思いで北小島は諦めざるを得なかった。

 1953 年の第三次現地教育は学生11 名を同行した。念願の北小島のヘビの墓場の調査が実現した。
 縄ばしごまで準備した。めざすヘビの墓場の竪穴の近くまで行った。
 ところが、鼻持ちならぬ独特な悪臭にわざわいされた。鳥糞の臭さに数分耐えるのはやっとだが、竪穴の中は想 像を絶していた。
 滲みだした鳥糞とシュウダの悪臭が入り交じった何とも言えぬ臭さ。竪穴内には、猛烈な悪臭と有毒ガスが籠 もっているせいなのか、心なしか息苦しく、とても立っていられず、一歩進むのも至難の技。
 防毒面の必要を痛感しつつ、穴から飛び出しては、風上に避難した。
 最後は有毒ガスの危険を察して、調査を断念せざるを得なかった。
 そのような理由から、竪穴の調査は実現できず、今日に到っている。
 これが終生の悔恨事である。
 願わくば、筆者の意志を引継ぎ、いつの日にか、北小島のヘビの墓場を探検、調査する若き学徒が立ち来たらん ことを希うものである。


 尖閣列島産シュウダの外部特徴(頭部及び体鱗)を図示する。




 「琉球列島における陸棲蛇類の研究」琉球大学農家政工学部学術報告第9号 1962)より
 参考にヨナグニシュウタ(頭部及び体鱗)を図示する。
※「尖閣研究 高良学術調査団資料集上」(2009年刊)より転載しました。




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