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ア ホ ウ ド リ 調 査 3題


その1


 オフレコで調査を続行

     元沖縄タイムス社記者 粟 國 安 夫

 絶滅したと見なされたアホウドリが、東京都八丈島支庁に属する鳥島に生息しており、その若鳥が尖閣列島に移動 している可能性がある。その可能性を求めて、取材を目的とした調査団の一人として参加した。
 44 年も前のことだが、未知の世界へ旅立つような興奮と緊張感を忘れることができない。尖閣列島の島々は、すべ て無人島であるため、調査団は幕舎、寝袋、食糧、炊飯用具、家庭常備薬、懐中電灯、殺虫剤など滞在に最小限必 要な物品を持参した。
 私たちは出港と同時に調査船「図南丸」の船内で高良鉄夫団長から尖閣の島々についてのレクチャーを受けた。海 鳥以外に生息する動物を尋ねると「南小島や魚釣島には3メートルもある大きなヘビ(シュウダ)」がいるが、お となしくて頭をなでると目を閉じてじっとしているよ」さすが“ハブ博士”と感心した。残念だが、シュウダ君に は会えなかった。
 この調査に参加した誰もが、強烈に記憶に止めているのは、調査船「図南丸」が三角波で危うく転覆寸前に遭遇し たことだろう。
 三角波をかぶった調査船が約35 度傾いたとき、琉球放送の赤嶺得信カメラマンと共にデッキの手すりに手を掛け、 海中に飛び込む準備までした。
 もし海に投げ出されたらどうなったか。無線機の一部は、海水にひたってしまいSOSを打電できない。たとえ打 電できたとしても現場海域まで航続距離のある救助のヘリコプターはないし、通常の航路でない上に付近はサメの 多い海域のようだ。助かる道は全くない。
 船員の話だと鉄鋼船だったから転覆をまぬかれたが、木造船だったらひとかたまりもなく転覆し、海の藻草と消え ていたそうだ。

 幸い一人の船員の機転で転覆はまぬがれたが、この恐怖の状況を記事として調査船から打電(無線機は修復した) するか、どうかで高良団長を交え、報道関係の調査メンバーで話合いを持った。その結論は、調査中に記事にすると 中止にを命じられるだろうから調査を終えるまではオフレコとすることにした。何事もなかったかのように調査は続 けられた。

 その後、高良先生にお会いする度に「九死に一生を得てよかったですね。」 とあいさつを交わすようになった。
 この三角波による浸水騒ぎの前日の夜には、米軍用船に怪しまれて威嚇射撃で停船を命じられた。「船名と船籍を 明らかにせよ」との信号が確認されたので、船名と船籍を明らかにして無事通過した。
 調査を無事終え新聞社に帰って分かったことだが、この威嚇射撃での停船命令の件が、歪曲されて伝えられ、調査 船が拉致されたらしいと大騒ぎになったことを知らされた。
社の先輩方に「ご心配をかけてすみませんでした」と天ぷらを差し入れした。

 目的のアホウドリにはお目にかかれなかったが、カツオ鳥、クロアジサシ、セグロアジサシといった海鳥たちが島 を被って、上陸した私たちの頭上すれすれに飛び交う。
 中には顔をめがけてくる鳥も。こちらが身をかがめてしまう。ヒチコック監督の映画「鳥」 のシーンを思い出させてくれた。これでも海鳥の数はへっていると高良団長嘆いた。
 米軍施政権下で領海も厳しくなかった。台湾漁民の生活も支えていた海域と島々だった。
 波が荒く、絶海の孤島で学術の存在価値だけの島々だったと思っていたが、東シナ海の大陸棚に豊富な石油資源が 埋蔵されていることが伝えられて一転した。
 台湾と中国が、領有権を主張するようになった。海鳥と亜熱帯植物の宝庫の島々が、歴史的にどの地域の生活園で あったかという観点と大陸棚との問題で揺れる島々となり、政治的に“波高い”所となってしまった。

 調査は南小島、北小島、魚釣島と三つの島に渡って行ったが、南と北の両小島は多くの海鳥を育み、魚釣島は島全 体が緑で被われ、ビンロウが亜熱帯植物を代表するかのように一段と高く飛び出していた。この調査団のメンバー として同行でき、貴重な体験をさせてもったことの思い出をたいせつにしたい。
 調査団のメンバーから琉球新報の田積友吉郎さんが、物故者となってしまったのが残念である。  (元沖縄タイムス社論説委員長)






その2


 カジは反対に切り、波に突っ込め!!

     元図南丸二等機関士 豊見山 恵 盛

 私は1961 年〜 65 年迄5カ年間、機関士として図南丸に乗り込んでいた。  図南丸は毎年尖閣列島近海を回りサバ漁場調査を実施し、時折は、底生魚一本釣りの試験調査を行っていた。
したがって尖閣海域は何回も行き来していたから熟知しているつもりでいた。だが1963 年5月赤尾嶼海域での できごとには驚いた。初体験である。
 そのときの私は船尾最下段にある機関室で自分の当番を終え、隣の部屋で眠っていた。
 いきなり顔面に潮をかぶり目が覚めた。もう一面水浸しである。
 当番担当がバルブを締め忘れたのかと思い、大声で怒鳴りながら、機関室に飛び込むと、何故か誰もいない。 海水はどんどん入って来る、慌てて排水ポンプを2台フルに稼働させ、とっさにエンジンを調整し速力を落と した。いったい何が起き、船はどうなっていると思い、大急ぎで階段をかけ上り甲板に出て驚いた。
 船の左舷が大きく傾き、今にも転覆寸前である。
 甲板は右往左往の避難騒ぎ、海を見て驚いた。赤尾島嶼の大海原に突如、大きな滝が出現したのかと我が目を 疑った。巨大な潮目である。当時、新聞には三角波と書いてあったが、あの時は、べた凪だったから三角波で ない。その証拠にブリッジ下側にあった無線室の出入りドアは大きく開け放たれていた。横波をかぶって無線 機は故障した。
 私は機関室に居たので事故直前の様子は知らないが、赤尾嶼に近づき、島や上空を舞う海鳥に見とれていたた め、図南丸は潮目に気付かずに、一瞬のうちに巻き込まれてしまったのではないか思った。海底に曽根などが あると激潮となり大きく波立つ、
 しかも5月の大潮(この時期は潮の満干は危険なほど速い)と運悪く重なり、巨大な潮目となった。大海原の 潮全体が堰を切ったように、大滝となって怒濤の如く流れ落ちているように見えた。図南丸はその大渦に巻き 込まれ、横波を受けて大きく傾き、滝壺(潮目)に落ち込んでは危険と必死で抗っていた。
 船の進行方向を見て驚いた。ハンドルを握っていたのは操舵手のMさんだった。
 潮目から逃れようとカジを反対方向に切っていた。
 「このままでは船は転覆する、危ない!!」と直感した。
 私は図南丸のように大きな船の場合は知らないが、エンジン付の小さなくり船で大時化に遭い、何度も転覆の 危険を体験をしてきた。大時化の時は波に突っ込むしかない。
 そうすれば波に乗り転覆は免れることができる。これしか方法はない。
 私は夢中で叫んだ。「Mさん、カジは逆、反対に切るんだ。波に向けて突っ込むんだ」 「とり舵一杯、とり舵一杯!!」、私の声につられてMさんはラットを強く握り、左舷に大きく回した。船は少 しずつ向きを変え、波に突っ込みながら進んだ。
 波に大きく乗ると傾いていた船体は、次第に正常な位置を取り戻してきた。
 あぁ、転覆は危機一髪で免れた。機関室で海水をかぶり飛び起きて、排出ポンプをフル稼働させ、エンジンの速 度を落とし甲板にかけ上り船体が持ち直す迄ほんの10分間の出来事だった。もう無我夢中であり、運良く助かっ た。
 甲板の騒ぎは収まり、高良先生ら一行も、安心し元の表情を取り戻していた。
 当時図南丸には20 数名(高良先生の一行8名と船長以下乗組員16、7 名)が乗っており、大惨事となっていたと 思うと今でも鳥肌が立つ。
 なお、皆さんの思い出記にハンマーを持って飛び出して来たとありますが、それは船体が持ち直した後に、私は甲 板に溜まった水を吐き出すため開閉器が膠着していたのでハンマーで叩きました。誰もが沈没寸前は避難するのに 動転していたため、前後の記憶を取り違えたのでしよう。

 あの航海には愉快な思い出も幾つかある。その1つが琉大の新納先生を迎えに行ったときのことである。先生は1 人で前の日に魚釣島に上陸し、泊まり込みで植物調査をされていた。戦果の草を数個の袋一杯に詰め担いでやって きた。
 私はてっきりヤギのエサ草かと思った、 「こんなにヒージャクサを一杯苅りて、お疲れさま。ヤギ公も喜びますねぇ」。
先生はニタリと笑って言った。
「これはヤギにやるにはもったいない。沖縄一、上等で高い草ですから」「??!!」、
袋から1本の植物を取り出した。「これはねぇ、イリオモテランだが、これ1本で1ドルもするんですよ」「へぇ ー、これが1ドルも、こんなに高い」と驚いた。
なぜなら一日汗水垂らして働いても、当時の私の日当は1ドルにも満たなかった。 その草1本でビールが何本も飲める高い草だ!!
それにしては、沖縄一高価な草がある場所がわかり、それを袋の何杯も採ってきたのだから、さすが大学の先生だ、 偉いと感心した。
最後に、編集係りから要望があって、「遭難」と「1本1ドルの高い草」の思い出を書いてみたが、39 年前のこと であり、私の記憶違いがあればお許し願いたい。
以上。
元「フェリー久米島」機関長






その3


 恐怖と驚きの連続だった!!

     元沖縄科学教材社 照 屋 林 松

 1963 年、私は高良鉄夫先生のアホウドリ調査の一員として尖閣へ渡島した。
 その頃は学校用科学教材を扱う沖縄科学教材社に勤務しており、稲福社長が高良先生からアホウドリ調査の話を聞い て、尖閣行きの話が社内で取り沙汰されていた。
 稲福社長は、尖閣にアホウドリが生息していたら大発見になるからと、16 ミリの映写カメラ(米国フレックス社製 だったかな?)をわざわざ購入し、貴重な記録映画(?)を撮影して来いと、ずぶの素人の私が特命をうけた。ひょ んなことで私の尖閣行きが実現したが、渡島の思い出は、恐怖と驚きの連続だったの一言に尽きる。

 私自身も最初の記録映画撮影とばかりに張り切っていた。が、那覇港を発ち、赤尾礁(大正島)に近づいた頃、米軍 の演習海域に入ったということで、突然砲弾(照明弾?)を打ち込まれた。
 真夜中1時頃で全員眠っていた。ものすごい音に起こされて右往左往、英語辞書を引っ張り出し、琉球船籍と無電し、 OKの許可が出て、どうにか助かった。
 それが最初の恐怖だった。その安心もつかのま、赤尾礁を目の前にして、突然三角波の恐怖が襲ってきた。
 船は45 度(?)も傾き、もう転覆寸前である。船橋の上で16 ミリを撮影していた私は、大事なカメラを守ろうと必 死で鉄パイプの手すりにしがみついていた。甲板を見ると、あれやこれやの大騒ぎ、突然一人の船員が怒鳴りながら ハンマーを手に駆けつけてきた。兎に角、難を逃れて、全員助かったが、このときの死の恐怖と驚きで肝をつぶして、 マブイ(霊魂)を落としてしまった。これが2番目のものだった。
 そのあと、船は一路、南小島へ、上空は海鳥が一杯飛び群がっているのが見えた。
 島の近くに奇妙な格好の船が5、6艘いた。また大きなカゴを抱えた男たちが島に上陸し、海鳥の卵やヒナを盗っ ていた。
 両端が反り返った船は台湾漁船で台湾漁民とのことだった。
 だが、当時の私には、とても恐怖に思えた。ここは地の果て、絶海の孤島、ここで危険な目に遭ったとしても誰に も分からない。奇妙な船は海賊船で、男たちは卵やひなを略奪する海賊の一味、相手は5、6艘の多勢だ、襲われ たら命はないと恐怖し驚いた。
 しばらくすると男たちは島から去り、船も島を離れていったので安堵した。

 南・北小島へ行くのにボートに乗り移った。そのボートから飛び降りて上陸した時も、上陸したあとも、恐怖の連 続だった。海鳥はカツオドリやアジサシたちは、太陽の光を遮るほど無数に群がって飛んでいた。数十万羽はいた だろうか。
 だが、私には壮観というより恐かった。
 鋭い嘴を人間に向けて突っ込んでくる鳥もいた。攻撃的になっていたのは繁殖期で卵やヒナがいたからかもしれな い。
 あのヒッチコク監督の映画「鳥」以上だった。あんなに大勢の鳥たちの前では生きた心地もしなかった。
 一斉に鳥たちの総攻撃に遭えばとても危険だったから、決して一人で行動はしなかった、島では全員が一列隊伍で 進んでいた。
 兎に角、海鳥の大群は迫力や凄みがあった、いまでも思い出すと恐いくらいである。
 私の尖閣渡島の恐怖と驚きは、その後も止むことがなかった。
 そんな恐怖と驚きの連続の中を、しかも馴れない手つきで16 ミリカメラを回し続けたも のだから、アホウドリ調査の記録映像はうまく撮れる筈がなかった。
 稲福社長が折角張り切って新品を購入し、当時珍しいカラーフィルムまで持参させられた。ところが、ずぶの素人 の私が事前練習なしで、本番撮影とばかりに、カメラを回し続けた。現像してみたら、私の力不足で、記録映画に するほどのできばえでなかった。
 今でも稲福社長の期待に添えず申し訳ないと思っている。

 その16 ミリフィルムだが、沖縄科学教材社は解散し、沖縄科学鰍ェ資産を引き取ったが、フィルムは保管状態が悪 く、使い物にならないほど傷んでしまったと聞いている。
 できばえがよくなくても、1963 年の尖閣列島の海鳥、高良先生一行のアホウドリ調査の光景を撮った貴重な映像だ けに、残念でならない。帰島後は、尖閣で幾つもマブイを落としたものだから、しばらくはウフトルバイ(茫然自失) していたものだ。
 44 年前の当時に思いを馳せると、恐怖と驚きの連続だった思い出が次々と浮かんでくる。
(ベビー・子供服 林屋 代表)




※以上の3題は、「尖閣研究 高良学術調査団資料集下」(2009年刊)の
追想「尖閣筐眼鏡」より転載しました。





参 考 資 料









1963年(昭和38年)5月19日



    生息の跡もない アホウドリ
       魚釣り島 亜熱帯植物の宝庫

 尖閣列島調査団(高良鉄夫団長)は、二日間の調査を終え、十八日八重山石垣市に帰った。 こんどの調査は、高良氏が本土の文化財保護委員会からの依頼で、尖閣列島にアホウドリ が生息しているかどうかの実態調査と、琉大文理学部助教授新納義馬氏の魚釣り島における 植物の生態と、琉球気象台海洋係長の伊志嶺安進氏の尖閣列島における海洋調査の三つの 分野に分かれていた。
 高良教授のアホウドリの調査は、文保委やその他関係者から大きな期待が寄せられていた が結果はアホウドリはもちろんアホウドリの生息した形跡もなかったことがわかった。ところが 北、南の両小島にはカツオ鳥やセグロアジサシ、クロアジサシなどの海鳥数百万羽生息して おり、南小島には、カツオ鳥が九〇%、セグロアジサシが七%、クロアジサシが三%、北小島 にはセグロアジサシが九〇%、クロアジサシが七%、カツオ鳥が三%の割りで生息している ことがわかったのは、せめてもの収穫だった。
 尖閣列島には台湾の漁船が五、六隻停泊、漁業のヒマに乗組員が島に上陸し、海鳥や そのたまごを捕獲していた。鳥の数も四、五年前より減っているといわれ、高良教授は「こん ご、鳥の保護対策をたてなければ滅亡するだろう」と案じている。
 一方、新納助教授は魚り釣島における植物の生態調査の結果、亜熱帯の植物林としては これまで荒らされていない唯一の島であることが判明、新納氏は「島全体が文化財に値する」 と語っている。  (粟国記者)




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