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    尖閣諸島 戦後初調査報告2題


 1、無人島探訪記  高 良 鐵 夫

南琉タイムス(10 回連載) 1950 年(昭和25年)4月25 日〜5月22 日



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1950 年の尖閣列島への単身調査の快挙は、驚きと共に痛快事であった。
うるま新報の「尖角列島訪問記」の記事(2に掲載)に出会ったときは心ときめいた。
編者もその感動を筆者に語ったら、地元八重山紙へ他の調査状況をレポートしたと知ら
された。古びた新聞切抜を見せられ、感激は更に倍加した。
56 年前の赤茶けた紙片に「無人島探訪記」の題字が躍り出ていた。
地元紙に10 回ほど連載されていたが人目につかずのままだった。
誰もが明日の糧食を探し求めた飢餓の時代に、無人の島尖閣に魅せられ、よくぞ調査
レポートを残してくれた。真摯な姿勢と先見性に感心させられた。
著者によれば、新聞に掲載されたものは、一部について抜けや省略があり不完
全であると言う。当時の新聞社の不自由な状況(活版印刷のため活字不足が悩み)
を考えれば、止む得ないとのことだったかもしれない。
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無人島探訪記  高 良 鐵 夫 


一.尖閣列島
 一日も早く尖閣列島え渡つて見たいというのが二年前からの私の切実なる希望であつた。それは同列島が生物地理 学上、又海洋気象学上の要点に位置しているからである。
 それ程までに念願していた無人島えの航行がいよいよ今日実現されるのだと思うと実に感慨無量である。
 三月二十七日午后七時盛海丸(一〇トン二〇馬力)は新川沖を出発し、魚釣島を目指して北北西に進路をとつた。
 街の電灯は次々と姿をかくし富崎を廻るとともに電灯はすつかり姿をかくしてしまつた。懐かしい街、美わしい人々 の心が胸を打つ。
 月は冴えているが波は高く屋良部半島、小浜島、西表島がほのかに見える。
 あれやこれやと街の文化生活を考えると行く先の無人島生活が思いやられる。
 船の揺れが次第に大きくなつてぢつとして居られない。次第に頭が重くなつて来て船に弱い者の哀れさを痛感させら れてならない。
 苦しい波路に夜は明けて午前七時水平線手前に魚釣島、南小島がかすんで見える。
 あれが尖閣列島そして無人島かと思うと全く夢のようである。
 船は上つたり下つたりでひどく揺れ、船側に砕ける大波は甲板を洗い流す。
 午前十時半南小島北小島の西岸側を通過し、魚釣島の南岸に沿うて西北岸に廻航する。
 南小島北小島に於ける海洋鳥の群が双眼鏡に映ずる。魚釣島南岸の断崖絶壁は見ただけでもぞつとする。全島見渡す 限りビロウが一杯繁茂している。
 午前十一時二十分魚釣島の西北岸に停船し、ここで上陸準備をする。
 海岸に廃きよらしいものが見える。船員がオーイと呼ぶと廃きよの中からオーイと答えて三人の男が向う鉢巻で出て きた。船員にきいて見るとここが数十年前古賀氏の鰹工場の跡である事がわかつた。そして現在は一月前より発田氏 の鰹仮加工場になつている。
 三人の男が海岸から舟をこぎ出して来る。午前十一時五十分荒波との流の中に漸く小舟に乗り移る。汀線は珊瑚礁が 舞台状に縁着している。
 午前十一時五十分東支那海の一無人島魚釣島に第一歩を踏む。真に痛快である。
 北緯二十五度四十六分三十秒東経百二十三度二十九分の一地点に立つて漁労に行く盛海丸を見送る。魚釣しまは石垣 しまを去ること六十粁の位置にあり、尖閣列とう中の最大島で周囲十一粁余面積三百六十七町歩余石垣市字登野城に 属している。

二.宿営地
 舟着場には鰹の頭や内蔵が惜気もなく捨てられ腐敗臭がそよ吹く風にぷんぷんとして鼻をつく。船酔いと臭気で目暈 がしそうになる。
 ふらふらしながら廃きよの楼門をくぐつて中に入つた。
 積み重ねられた石垣は第三紀砂岩であり厚さ約三米高さ約四米実に堅固である。風波を防ぐための石垣であるが故三 方には出入の出来る程度の楼門がある。
 この囲の中に二坪の幕舎と約三坪のビロウ葺の仮工場が設けて居り無人とう生活の空気がみなぎつている。そこで私 も五人の加工場の仲間入りをしこの幕舎に泊めてもろう事にした。こゝには清浄な小流水があり実に佳良な飲料水が 得られる。
 近隣にはテツポウユリの花が咲きほこりキセキレイ、ホホジロセキレイ?がせつせと飛び交し、タカサゴシヤリンバ イの花の香が鼻をつく実に住みよいところである。
 ヒチロウネズミ?が人目をぬすんでちよこちよこ動している。地面が動いているので早速掘り出して見たらジャコウ ネズミであつた。アヲスジトカゲ、オキナワトカゲ?が石垣の穴から出たり入つたりしている。三毛猫(野生化)が 鰹を盗みに藪影からのぞいている。
 カモ、カモメの一種が時たま訪れて来る。このような周囲の状況からみるとここが無人島中の大都会でありこれ等の 自然が吾々の心を慰めてくれる。

三、北岸踏査
 二十八日午后一時早速調査採集に着手、これからが単独こう動である。
 北部海岸に沿うて東北に進む。砂浜が殆んどないので海岸砂地植物は到つて貧弱であり、クサトベラ、モンパノキ、 ハマオモト、グンバイヒルガオ、ハマナタマメ類が僅かに点在している。これらの植物はすべてが無人島育ちの趣を 添えて人待ち顔に見える。
 宿営地の東北方約三百米の地点にはムサシアブミの小群落があり、付近の岩影には人間の白骨が重なつている。疎開 途中に遭難した人々らしい。無人島で哀れな最期をとげられた人々の為にしばらく黙とうを捧ぐ。
 沿岸岩地にはガジマル、アカテツ、イヌマキ、リユウキユウガキ等が荒れ狂う風波のために、多くは一米位の高さで 曲折し灌木状に育つている。しかもこれが斜面に沿うて圃つている様は実に面白い。
午后二時半沿岸砂地ハマゴウの中に蛇を発見したが取り損ねてしまつた。
 逃げ場は朽木の根元である。周囲の状況から判断してみるとこの穴が棲息所らしい。
 上陸早々蛇にぶつかるとは余程この島には蛇が多いものと思われた。
 目前に赤褐色の裸をみせた大岩小岩が重なりころがつて居り地殻の大きな変動の跡がみえる。その中央にたつて高い 所からみ渡すと約二十町歩位ある。断層を見ると閃緑岩?を基岩としてその上に第三紀砂岩がのつて居り所々に泥板 岩を噴き出している。
 又石炭層が五六糎の厚みではみ出ている。

四、蚊群の襲撃
 夕食をしていると、首をちつくりと刺すものがいる。捕らえて見ると蚊である。
 最速空襲がはじまつたと誰かがいう。黄尾島の爆撃かと思つたがそうではなく、これはネツタイイエカの襲撃である。 音もなく飛んできて静かに止まり、手足等裸出て居ればところかまわず刺す。これが実に巧妙でいたくてたまらない。  無人島の蚊は食物にかつえていると見える追払つてもやつてくる。
 今正に人間と蚊が二坪の幕舎の中で生存競争が展開されている。
 さてこれが幾日続くだろうかと思うと気になる。
 無人島で蚊に殺されたのではたまらない。アフリカ未開地に於けるねむり病媒介者ツエツエ蝿のことが頭にういてくる。 打ち落されても次々と増強してくる。
 無人島のネツタイイエカは実に執念深い。生温い防除では間に合わない。
 最後の手を打つことにして硫黄燻煙をはじめる。漸く退散せしめたが床に就くと再び襲撃がはじまつてくる。一群のも のは既に蚊帳の中に進入している。
 無人島の夜は磯に砕ける波の音と蚊の襲撃に更けて安眠が出来ない。そこで夜半に波打際に出たがそれでも又追いつい てくる。天空をながめ海をながめ輝く星と大波の音にうたれ寂寞を感じつゝ睡眠不足のまゝに夜を明かした。
 この島にいる限り蚊の襲撃はのがれることが出来ない。

五.海の宝
 三月廿九日早朝から海の方が特別騒がしい。びつくりして幕舎を出て見ると、二隻の漁船がカジキの群を追い まくつている。海岸から二百米程しか離れていない。
 相変らず波は荒い。船は上つたり、下つたり、ひどく揺れている。突き台の上に立つている四人の漁師の槍は今 まさにカジキを突き刺そうとしているが船がひどく揺れるので見当がつかないらしい。カジキは必死になつて逃げ ようとしている。
 時々そんな大きな中体が空に跳り出る。その光景は正に手に汗握る痛快事といえ、まさにあつと言う間に槍は投げ られ、カジキにぐさりと突き刺さる。早速うきが流され、船は全速力で次のカジキを追い掛けて行く。
 他方約四百米のところでは人間と海洋鳥と魚の生存競争が演ぜられている。
 雑魚を追う海洋鳥と鰹の群やカジキを追う漁船群、無数の海洋鳥と魚群と八隻の漁船との間に食うか食われるかの 一大決戦場が展開されて居り、この魚釣島でなくては見られない一大絵巻といえよう。船の中に投げ込まる銀白色 の鰹、えつさえつさと引き上げられるカジキ、海亀等凱歌は漁船にあがる。漁船群を追つて移動分散集合常なく沖 を走る。
 このような光景は沿岸又は沖合で毎日展開されて居り、これ等漁船の中には大島、沖縄から近きは与那国、宮古か らも来ている。尖閣列島はまつたく海の宝といえよう。
 マス、カツオ、ハカツオ、トビウオ、イルカ、フカ、クジラ、海亀等に恵まれて居り、斯る海の幸は海流の関係が 主体であろうが、又魚釣島そのものの地形と森林植物が魚附の効を多分に持つているものと思われる。

六、小蛇の生捕
 午后二時昨日取り逃した蛇を生捕りに行く。予想通り棲息所の穴から出て、日当ぼつこをしていて人間が接近しつ ゝあるのを知らないらしい。
 生捕るには丁度都合が良い。今度こそ取り逃がしてはならない。きづかれなように匍うて行き、岩影に身をかく し、そこで双眼鏡、胴乱等を肩から下して身軽になる。
 蛇の逃げ場と頭をめがけて岩影からさつと飛び込み、左足で穴をふさぎ両手を以て頭と尾を押さえ難なく生捕る。 一人苦笑しながら凱歌をあげて宿営地に帰る。
 長さ八十三糎、シユウダ科のナトワリツタスに属する一種である。
 夕暗迫る宿営地上空にはリユウキユウツバメの一群が旋回遊飛しているのが目撃される。

 ※(以下は宿舎を出て、西海岸を北に向う記述であるが、原稿の前半部が抜けている)
 ……植物はすべて根こそぎにされて腐朽しており、新にススキ類、ナンバンキセル、ボタンニンジン、イリオモテ アザミ?クサスギカヅラ等が点在的に生えている。
 後で漁師より聞いて解つたが、この一帯は先年(一九四七年?)の地震によつて山がくずれたものらしい。大岩か ら小岩へ、小岩から大岩えと時々巾飛して渡らねばならない。
 時たま飛び損ねて岩と岩との間に落ち込んだり、或は向う脛を打つたりして実に歩き難いところである。岩盤の間か ら清い水が流れており、やはり飲料水として佳良である。
 北方水平線上に小島が浮いて見える。これは北緯二十五度五十五分、東経百二三度四十分、永久危険地区として指定 された黄尾島である。双眼鏡で見ると海岸は概して断崖絶壁をなして居り、中央部は山丘になつている。この黄尾島 こそ農業上関係の深いところであり、海洋鳥も又多いところであるが惜しいかな危険地区に指定されて調査が 出来ない。
 数十年前は島の海洋鳥及び鳥糞が資源として重宝がられ当時移出産物になつていたという。日は既に西海に傾い て居り、夕陽あびながら宿営地に帰る。

七、西岸踏査
 沿岸植物を求めて今度は西海岸を南進する。これ又砂地が殆んどなく北岸と同様に第三紀砂岩が汀線に傾斜露出し て居りあるいは所々に珊瑚礁が舞台状に縁着している。
 従つて砂地植物は殆んどなく岩上にイヌマキ、マサキ、ガジマル等が生えて居りその生態分布の状況は沿岸と大した 差はない。鳥類ではリユウキユウアカシヨウビン、シロサギが目につく、第三紀砂岩の断崖絶壁に遭遇して路頭に 迷う。
 仕方がないので草を踏み分けて、断崖上を宇廻したが再び断崖に遭遇してしまつた。
 進退極まつて進むことが出来ない。進路を変えて後退し汀線の断崖を下ることにした。
 装具が邪まになるので先づ双眼鏡、水筒胴乱等を縄で下にし裸足で一歩一歩下る。
 眼下には砂岩の大がころがつて居り崖に岩コケが生えている。時々すべつて頭の毛がさつとする。漸く地獄崖を通 り汀線上を南岸に廻つたがここで再び火山岩の絶壁に遭遇した。
 眼下は青海原であり完全に進路を阻止された。東方には北小島、南小島が手に取るように見える。魚釣島南岸の断 崖上には岩骨の突出した山があり近くの断崖はテツポウユリ、キキヨウラン、サクラランが見える。海岸にはヒノ キ、カタン、ラワン、米松、スギ等の流木が打ち上げられているが、何れもフナムシが深く侵入して居て用材とし ての価値なく薪以外には利用出来ない。しばらく休息の後再び地獄崖を通つて帰路につく

八、大じや生捕
 明けて三十一日島の縦横断を計画し島の最高点を指して早朝出発した。
 勿論道はない。自ら路を切りひらいて進まねばならぬ不利をまぬがれない。沿岸の灌木層から喬木層に入る山中には 大小幾多の岩が重つて居りしかもコケが生えいるので容易に進めない。昼尚暗い密林がある。タブノキ、イヌマキ等 の木材資源が目につく。
 体の小さな黒鳩がビロウの葉をばたばたたたいて飛び去る。アツマイマイが時々目につく。羅針盤を取り出して進 む、二時間経過の後漸く南岸の絶壁上に出た。
 青臭い蛇の臭気が鼻をつく。後を振り向いてびつくり二三歩飛び下る。今通つて来たばかりのリユウキユウガキの 根元に二匹の蛇が鎌首をあげてこつちをにらみつけている。
 運が良かつたと胸をなで下しながら後へ廻りあなをのぞいて見た。胴周り約三十糎と二十五糎もある二匹の大蛇の ヤエヤマニシキヘビ?である。一人で生捕りすることは心細いので応援を求めに宿営地に向かつて大急ぎで山を 下つた。
 三十分の後宿営地についたのであるが幸にして漁師も数名一時の休養のために上陸している最中応援を乞うたら心よ く承諾してくれた。漁師三名製造人一人それに小生計五名、身軽になつて喜び勇んで出発した。
 既に一時間半を経過しているが余り急ぎ過ぎたため方向を違えてしまいとんでもない竹やぶに来て居る。漁師の三名 は時間の都合でここから引き返すことになつた。
 製造人の大底某と二人でさんざん探し求めた結果漸く先刻の進路に出ることが出来た。約十分の後蛇の居所についた が一匹は既に逃げていない。附近探し求めたが見つけることが出来ない。居残つた一匹は余程警戒をしてこつちを向 いている。
 大底某をして大蛇の前方で演技をさせ蛇の後方から首をしめる方法をとつた。

九、密林踏査
 午后二時進路を変換し再び羅針盤を最高峰に向ける。伐採しながら進路を向ける。
 どこを見ても主体を占める植物はビロウであり、高さ十五米、葉柄の長さ五米以上に達するものが沢山あ る。葉柄の付け元にコメツキムシが居りこの虫を食うために長さが十四五糎もある大きなムカデがいる。うつか り葉柄をもぎとるとこのムカデにやられることがある。腐朽したビロウの幹中にはタイワンカブトムシの幼虫が 見受けられる。
 海岸近くから中腹にかけてのビロウは一米位の高さで心芽をもぎとられ枯死しているものが多い。これは野菜 代用として採取されたものらしい。
 奥地へ進むにつれタカサゴシヤリンバイ、クスノキ、イヌマキ、タブノキ、リユウキユウガキ、ガジマル、ク サギ、ヤマグワ、クロツグ、アコウ、モチノキ、ツバキ、アカギ、オオバギ、フトモモ等の樹木は勿論、ハカマカズ ラ、ハマナタマメ、クワズイモ、ムサシアブミ、トウズルモドキ、フウトウカズラ等の生育が良く原生林相をそなえ たところもある。
 殊にクロツグは葉柄の長さ七米に達するものがある。
 山林中の崖又は谷間にはサクララン、マツバラン、オオタニワタリ、リユウキユウセキコク? リユウビンタ イ、ノキシノブ、オニヤブソテツ、オオアマクサシダ、ヘゴの一種、ミズスギ等が目につく。時たまツマベニチヨ ウ、アサギマダラが谷間を飛んで行く。
 野禽として山林中で最も多く見られるものはメジロ、ヒヨドリであり、物珍らし顔で人を見つめるのは面白で。 やはり無人島育ちの趣きを添えている。
 山頂近くに来ると蛇の臭気が鼻をつく。
 ビロウ、ガジマルが密生しているので昼なお暗い。ガジマルの気根がまるい

十、東南岸踏査
 四月二日午前八時再び北部海岸線を通り東北岸に進路を求めた。
 海岸線はやはり珊瑚礁が第三紀砂岩に縁着して舞台状になつたところがあり、又岩が汀線にころがり、あるいは 諸所に間隙があつたりして歩行は極めて困難である。
 砂浜が少なく砂地植物は西岸同様貧弱である。岩上にシロサギの骸骨と羽毛が散つて居り鳥と鳥との生存競争の 後が無人島の一角に残されている。おそらくツナの仕業であろう。 黄尾島、沖の北岩を左に見つゝ前進する。岩 と岩との間に僅かな堆土を利用してアダンが元気なさそうに生えて居り何等の大蛇がつり下つているように見え る。蛇の臭気を求めてガジマルの根、岩影、あるいは樹上を探しても見当たらない。ガスをたいて飛び出したもの は小蛇一匹、捕て見ると上陸翌日捕つた小蛇と同一種、略同大のものであつた。
 午后四時半山頂につく。高所から見渡すと北方沖合に黄尾島が見え、眼下には沖の南岩、沖の北岩、北小島、南小 島、魚釣島を中心として移動している十数隻の漁船等、尖閣列島のすべてが手に取るように見える。
 沿岸の植物相は資源的価値も認められない。その他東北岸の植物相も大した変化がない。
 この東北部海岸は明治の末期頃までアホウドリが二、三ケ所に群棲していたということであるが、今日ではアホ ウドリの棲息は見られない。これは種々の妨害のために北小島あるいは南小島に移動したものであろう。
 沖の南岩トビ瀬島を目前に見て東岸を南下、北小島、南小島の岩山が尤立して如何にも物騒に見える。南岸の中部 付近まで来ると崖が多く、容易に汀線を渡ることが出来ない。
 無理をして漸く進んで来たが遂に進退極つてしまつた。今更海岸線をもどつて帰るのも無意味な感がしたので思い 切つて断崖絶壁を攀じ登ることにした。
 先づ胴乱、双眼鏡、水筒、靴などが邪まになるので一応装具は縄で結んで置き断崖を登り終つてから縄で引き上げ ることにした。まるでヤモリが壁を匍うようにして崩れた砂岩の突角を足場にして登ること十数分、崖の半分まで 来たとき右足下の岩が崩れ落ち全身の重みを左足と右足にかけた瞬間、今度は右手の岩が欠けあつと言う間に断崖 下に落ち込むところであつたが幸いトウズルモドキが四五本垂れ下がつていたのでとつさの間にこれをつかみ漸く 命を救うことが出来た。これこそ命の綱であつたのである。
 仕方なく断崖を下り進路をかえて再び崖を攀じ登る。
 崖上出た時は既に午后一時半、時間の都合上で南岸のがい上迂回を中止し横断して北岸に出た。若し断がいを迂回 し島を一周するなら一日を要するであろう。

十一、小島と海鳥
 魚釣島の東南方約四粁隔つたところに二つの小さな島がある。
 これを北小島、南小島と言い漁師は俗に鳥島といつて居る。北小島、南小島は約三百五十米離れている。両島とも に第三紀砂岩に珊瑚礁が所々に緑着して居り、峻嶮な岩山の無人島であつて海鳥の棲息に適している。
 北小島は周囲三粁余、面積約二千五百アール海抜約百三十米、南小島は周囲約二・五粁、面積約三千二百アール、 海抜約百五十米、近海は波も荒く流れも速いので天候のよい時でも船をつけることは困難である。樹木はないが雑 草らしいものが双眼鏡で見える。
 南小島には洞穴があり、四米位の大じやと海鳥調査のため両小島に渡るべく計画を進めたのであるが天候に恵れず 遂に両小島を目前に見ながら上陸することが出来なかつた。
 以下両小島に行つた経験のある漁師連と双眼鏡で見た実況とを総合してみよう。
 南小島にいる海鳥はクロアジサシ、セグロアジサシ、アホウドリ、クロアシアホウドリ、リユウキユウカツオド リ、シロイツチヨン、オオミヅナギドリ、クロウミツバメ等でありこれらの海鳥は魚類を食うのでその糞は肥料と して貴重なものである。
 両島から飛び立つ海鳥群は空を覆い実に勇壮であり、ステツキを振れば一振りで二三羽たたき落されるという。 上陸すると最初の程は人を珍らしそうに見つめているそうであるが一度彼鳥を驚かすと人間を見ただけでも飛び去 るという。
 アホウドリやその卵等が乱獲されているがこのようなことでは折角の鳥群も四散し跡を絶つに到るであろう。繁殖 が極めて遅緩なものであるから妄りに捕獲することを禁じ一種の保護法策を講じて群棲を誘致し、無限の肥料資源 を得るようにしなくてはならない。
 数十年前には魚釣島にもすう十万羽のアホウドリが棲息していたようであるが現在は跡が絶えており、黄尾島にも 島を覆う程棲息しているようであるが永久危険地区に指定されているのでその状況は不明である。

十二.無人島の嵐
 四月五日あやしいと思われた天候は予想通りに夕刻から風雨が強くなり、寒気が急に襲つて来た。海岸の方にはあ わただしいエンヂンの音、騒動しい漁師の大声が聞こえる。
 夜半には遂に大嵐となり宿営地も又混乱状態に陥る。ビロウ葺の小屋はぐらつき、雨は打ち込み、三坪の幕舎はひ つたぐられそうになつて来る。
 幕舎に載せた石がおちる。荒れ狂う大波は雷鳴とともに惨じく響く、頼りになるものはこの石垣ばかりである。こ れが崩れてしまえば宿営地は風波のために一掃されるかも知れない。とんでもない無人島へ来たものだと思うと不 安でならない。一枚の毛布に身をくるみ、ばたばた揺れる幕舎の中で夜の明けるのをまつ。
 明けて六日早朝楼門から海岸をのぞくと昨夕水を補給して居た五隻の漁船はもう姿が見えない。前夜半の中にどこ かへ逃避したものらしい。
 山のような大波は磯に砕けてものすごいしぶきを上げる。陸地に引き上げてあつた刳舟は完全に転覆されて腹を見 せて居り、海岸に放置されていた鰹の頭や内蔵がすつかり洗い流されて清掃されている。昨夜まで元気よく飛び交 わしていたリユウキユウツバメの一群はすつかり元気を失い簡単に手で捕らえられる。

 筆者追記、本稿は「幽霊船」など記述に抜け等があり不完全である。
 再掲にあたり、文中誤りを訂正・補足し、旧漢字は一部新漢字に改めた。
 (終り)

  ※「尖閣研究 高良学術調査団資料集上」(2009年刊)より転載しました。



   調 査 余 滴


尖閣列島写真の戦後第一号、
      波間に浮かぶ南小島


 1950 年渡島した時に初めて撮った写真である。
 波間に浮かび出た島影を見たときは、躯が震えるほど感激した。
 あぁ、あれが古賀の無人島だ!!
 夢にまで見たトリシマ(南北小島の古名)・尖閣列島だ!!とねぇ。
 小さな盛海丸(10 トン:20 馬力)は大時化の中で、うんと揺れたものだから、
 船酔いはひどかった。
 ふらつく足で甲板から初めて撮ったのがこの写真である。
 当時カメラは持ってなく、友人から借りて持参した。
 俄かカメラマンとなって、あれこれ撮ったが、下手くそだからうまく撮れない。
 帰ってから現像してみたら、殆どの写真が写ってないのにはがっかりだ(笑い)。
 そんなわけだから、第一次調査の写真はほとんどない。
 運がいいことに、この写真だけはうまく撮れている。
 最初にシャツターを押して写したものだから、僕にとって、思い出深いものがある。
 だから、これまで、尖閣列島を紹介するのによく使ってきた写真だ。
(高良博士談)



※本コラムは、「尖閣研究 高良学術調査団資料集上」(2009年刊)より転載しました。

 2、尖角列島訪問記  高 良 鉄 夫 

うるま新報(2回連載)  1950 年9月15 日〜 16 日


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終戦直後の新聞は混沌とした世相を伝える記事が満載していた。
そんな中に、「尖角列島訪問記」の紹介記事を見つけたときは驚いた。
戦後の島のようすを、子供向けの平易な文章で伝えているのに感動したことは前述した。
古賀の無人島「尖閣列島」の情報は、戦中・戦後久しく途絶えていた。
筆者が那覇へ転出を機に、全県紙「うるま新報」へ寄稿した2番目のレポート、
島の様子をかいつまんで伝えており、掲載効果も大きかった。
ちなみに、尖閣列島といえば「漁業資源の宝庫」と「海鳥の楽園(又は王国)」
がすぐに連想される。(昨今では「石油資源」と「領有問題」に変わったが)、戦
後一時期は、この2つが尖閣を象徴し、イメージさせるものだった。
このキーワードを作り、島のイメージを定着させたのは高良博士である。
「海岸で鰹の釣れる島」と「卵と鳥で島は一ぱい」の記事がはそれを如実に示して
いる。また「…冬の漁場としてのねうちが高いように思われた…鳥のくそを利用する
ことを考えなければならない」として、第二次合同資源調査を予告している。
子供向けの記事であるが、報告書の1つとして収録した。
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   尖角列島訪問記


      農林省(前八重山高農校長)高 良 鐡 夫 


(一)海岸で鰹の釣れる島
 さきにハブをのむアカマタのおはなしをして下さいました農林省の高良鉄夫先生に こんどは“あほうどり”といううみどりのむれとぶ無人島のお話を書いていたゞきま した。この琉球列島にこんなめずらしい島があつたのかとたゞたゞふしぎに思われる ばかりです。地図とてらしあわせながらゆつくりおよみ下さい(かゝり)

尖閣列島
 無人島と言えばみなさんは、すぐ絶海の孤島を思い出し何かしらきみ悪く思うでし よう。私はさる四月こん虫さい集のため尖閣列島という無人島に行つてきました。 尖閣列島とはどこにあるでしようか。またどんな島でしようか。
 八重山の石垣島から北北西に進路をとつて行くと一〇馬力、二十五トンの漁船でお よそ十九時間のゝちにこの列島の近くにたどりつくことができますが、ちようど台湾 の北方およそ一八五キロメートルにあたつています。
 この列島は魚釣島:うおつりとう、黄尾島:こうびとう、北小島、南小島等は個〃 島から成り立つています。

魚釣島
 魚釣島はがけが多く、南がわの岸には約三六〇メートルの岩山がつゝ立つており、 海から見ると、まつたく海賊でもすんでいるように見えるので、うすぎみわるい。
 島のまわりが十一キロメートル、めんせき四平方キロメートル、風のしずかな時でも波 があらいので上陸するのがなかなかむつかしいのです。
 海岸から二〇〇メートルぐらいのところでカジキ、カツオ、フカ、ウミガメ、イルカなどがとれるほど魚が多く。
 ひるなお暗し
 また島の中にはビロウ、クバ、イヌマキ、アコウなどがしげつて、ひるもなおくらいところがあり、山羊のなきごえ のするくろいハトがとびだしたり、三メートル近くもある大きなヘビがちよいちよい見られるのでひとり歩きはやはり よい気持ちはしません。水は岩のあいだからわき出すのでのみ水の心ぱいはありません。

(二)卵と鳥で島は一ぱい
 せんそう前はウミドリが足の入ればもないほどにふえ、おどろかせてやると一せい にとび立つて空をおゝい、くその雨がふるありさま、またステツキを一ふりするとか ならず二、三羽はおちたという尖閣列島のトリ島‥‥…

南小島 北小島
 南小島は海ばつ一五〇メートル、まわり※二・五キロ、北小島は海ばつ一三〇メートル、まわり三キロあるが、 どちらも海中からぬつとつき出た岩の島で木はない、
 小説にある“おにが島”や“がんくつ王”のすんでいるような島ににている、この島はふつうトリ島といつて いるが、アジサシ、アホウドリ、カツオドリなどのウミドリがじつに多く、タマゴと魚と鳥が一ぱいになつて いる。(註※:誤字訂正)

息もとまる ほどだ
 火をたいていると夜どおしなくのでねつかれない、また風しもに船をとめると、く そのにおいで息もとまつてしまいそうになるほどだと言われているが、終戦後りよう しによつてめちやくちやにとりつくされたので、その数がへりつゝある。
 この列島のまわりでは、ウミドリと魚の食うかくわれるかのものすごい生存競争が 手にとるように見られる。

黄尾島
 黄尾島は米軍政府から永久きけん地区にさだめらていて上陸することはできなかつた。 この尖閣列島は動物や植物の分布のようすを知り、またその生活のもようを研究するのにたいせつな場所となつている、
 また魚のとれぐあいやその種類から見て冬の漁場としてのねうちが高いように思われる、
 一方ウミドリをみだりにとらないうようにし、たくさんふえるように保護してやること と、鳥のくそを利用することを考えなければならない。


 ※「尖閣研究 高良学術調査団資料集上」(2009年刊)より転載しました。

調 査 余 話


高良と発田との出会いが、戦後尖閣調査の契機に !?


魚釣島、古賀村跡で、カツオ節製造を営む
 尖閣諸島は島の周りでカツオが釣れる。1949,50年には、宮古・八重山のカツオ船がやってきて、島の周りでカツオ を釣り上げ、当時は氷ない時代だから、魚釣島、南小島に仮工場を設け、カツオ節製造を営んでいた。
   八重山石垣の発田重春も、魚釣島古賀村の鰹釜納屋(カツオ工場)跡に仮工場を建て、カツオ節づくりを行っていた。 操業間もない1950年3月、発田の船に便乗して、一人の男が島を訪れた。足にゲートルを巻き、大きな背のうを背負い、 肩には胴らんと水筒、手には捕虫網を持っていた。
 この男こそ、戦後初の尖閣諸島調査を行なった高良鉄夫である。
 高良はイリオモテヤマネコの発見者であり、ハブ博士として著名である。 戦後初の高良による尖閣調査は、この時に第一歩を踏み出した。以後68年まで5次に亘る調査を成し遂げて、今日の 尖閣諸島の自然の学術的解明に大きく貢献した。

発田と高良の出会いなければ 戦後初の調査 誕生せず?
 他方、発田重春は、兄喜平と共に、戦前与那国で、発田カツオ工場を経営していた。
 発田カツオ工場は当時東洋一といわれるほどの規模で、工場は夜間は煌々と電気が灯り不夜城の感あった。天を衝く 高い煙突が軍需工場と間違われ、米機の空襲に遭い、壊滅した。戦後石垣の大川に移転、ここでもカツオ工場を営み、 魚釣島でも節製造を行っていた。
 発田の話を聞きつけて、高良は、尖閣諸島調査を決意した。尖閣は当時は古賀の無人島と呼ばれ、少年の頃から古賀 の無人島探検は夢だった。
 高良は、尖閣諸島調査を為しえたことに、終生発田に感謝していた。
 愛用していた将校用双眼鏡(高良は小隊長大尉だった)を、発田にプレゼントしたのも感謝の表れである。高良は、発 田の協力による戦後初の調査を敢行し、これに続き5次調査まで主導し、戦後の尖閣調査に大きく貢献している。高良 は発田との出会いがなければ尖閣調査の第一歩は踏み出せなかったであろう。八重山農林高校長から琉球民政府農改 局へ4月転勤の最中になされている。沖縄本島赴任直前の調査であり、本島赴任後は石垣には暫くは戻れない。4月1日 には初出勤だが、八重山に留まったまま3月27日に、魚釣島には、駆け込み上陸し、石垣に帰島したのは4月10日で、滑 り込みセーフで調査を為し遂げた。

高良、岩崎の教え、黒岩の衣鉢、恒藤・正木の調査に刺激される
 高良の話を少し続けよう。高良鉄夫は小2の頃、石垣島に移住、天空がかき曇るほどの乱舞する海鳥の島があるとの話 しを聞き、古賀の無人島に魅了された。
 その尖閣諸島のことをいろいろと教えてくれたのは石垣島測候所長岩崎卓爾だった。
 ヤギの草苅りや薪取りが日課だった少年の頃、山野へでかけテンモンヤーヌウシューメー(天文屋の御主前)に出会う と、いろいろと教えを乞うた。岩崎は高良少年に、尖閣の海鳥や八重山の自然のすばらしさを手ほどきしてくれたとい う。
 長じて沖縄県立農林学校に進学した。学校の初代校長は、”尖閣列島”と命名した黒岩恒だった。高良が入学した頃 には、黒岩は世になく直接の教えを受けることはできなかったが、黒岩が育て上げた農林学校の実学重視の校風に薫 育された。
 奇しくも、黒岩校長の衣鉢を継いで戦後初の尖閣列島調査を敢行することになる。
 高良は、調査の動機の一つに海鳥の雛の訓練が見たかったことを上げている。
 窒素肥料研究の泰斗恒藤規隆博士は、古賀辰四郎に乞われて、尖閣でグアノ調査を行った。その際に親鳥がヒナたち を訓練するのを見て感嘆し、この様子を「南日本之富源」に記した。高良はこれを読んで強い衝撃を受けたという。 高良は、少年時代と農林学校時代は、岩崎の教えと黒岩校長の遺風を受け、青年時代には、恒藤と岩崎の門弟正木任 の尖閣調査に刺激されて、戦後初の尖閣諸島調査を成し遂げたわけである。

1950年の報告で、 ”海鳥の楽園、漁業資源の宝庫”として認識高まる
高良は、憧れの海鳥の島には渡島できず、魚釣島に約2週間滞在し、生物相の調査に専念した。周辺海域は多数の 漁船が入り乱れて操業、沖縄はもとより二本マストの大型船は四国からのカツオ漁船、九州のサバ漁船やカジキ突ん 棒、台湾からの漁船で賑わっていた。
調査成果は、地元八重山紙「南琉タイムス」に「無人島探訪記1〜10」(1950.4.25〜5.22)。全県紙「うるま新報」に 「尖角列島訪問記上下」(.9.15〜16)を寄稿した。
古賀の無人島「尖閣列島」の情報は、戦中・戦後久しく途絶えていたので、大きな反響を呼んだ。
尖閣列島といえば「漁業資源の宝庫」と「海鳥の楽園(又は王国)」がすぐに連想される。戦後一時期は、この 2つが尖閣を象徴し、イメージさせた。このキーワードを作り、島のイメージを定着させたのは高良の功績である。
「海岸で鰹の釣れる島」と「卵と鳥で島は一ぱい」の記事はそれを如実に示している。また「…冬の漁場として のねうちが高いように思われた…鳥のくそを利用することを考えなければならない」として、次の調査を目論ん でいる。高良の報告が契機となり、戦後の尖閣諸島は、”海鳥の楽園” “漁業資源の宝庫”として認識が高ま り、再び脚光を浴びることになる。


※「尖閣研究 尖閣諸島海域の漁業に関する調査報告 2017年」より一部転載し、
「調査余話」と題して紹介しました。




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